• 元町の古本屋へ寄ってから、劇評を書くので、シアトリカル應典院でピンク地底人*1の『ある光』をみる。

【規則を理解する】

  • 12人の俳優が舞台に出てくる。舞台の外から、スピーカを通して男の声が発せられる。声だけのこの存在を、ナレーターと名づけておく。ナレーターは、この『ある光』と題された演劇の要となる13人目である。
  • ナレーターが発する「宇宙」とか「飛行機」とか「覗き男」とか「妹」などと読み上げる声のあとに、12人の役者たちが一斉に動き、台詞を発する。これが繰り返される。どんな演劇もいきなり始まり、観客は、そのなかにしばらく身をさらすことで、その連続する唐突さを駆動しているだろう何らかの規則を読み込むことをしている(無論、その読解した規則は不変ではなく、新たな唐突さが舞台上に到来することによって、変更や破棄を迫られることもある)わけだが、そのようにして、やがて舞台を眺める観客は、まず、次のようなことを理解したと考えるようになる。
  • つまり、ナレーターが、例えば「妹」と提示すると、その直後から開始される舞台上の12名の役者の動きや発話は、12名の役者の声や姿かたちの何もかもがまるで違っていても、それらが指し示しているのは、ほかの誰でもなく「妹」ただひとりの動きであり発話なのである、と。12名の役者はそれぞれが表出する異質さのままで、ナレーターが提示した、たったひとりを演じているらしい。それは「妹」が「病室のいす」や「少年ジャンプ」に変っても同じである。
  • 同じことを、この演劇に於ける「場面」のほうからみる。ひとつの場面の構成は、ナレーターが語りの主体を提示することで始まり、ナレーターが次の提示を行うことで区切られる。ナレーターが一回の提示で複数名のそれを行うことはないので、12名の役者は、提示されたひとつの何かを全員で演じることになる。なお、新しい場面が始まった際、前の場面の語りの主体(例えば「病室のベッド」)が、役者の数を減らして舞台上に残っていることがあるが場面を構成する発話の主体とはならない。しかし、この例外も、たびたび生起するものとして、すぐにこの演劇の規則として、了解済みとなる。
  • まとめると、この演劇に於けるひとつの場面とは、原則として、12名の役者によって構成されるたったひとりの場面であり、だからその場面を埋める言葉もまた、12名の役者によって構成されるたったひとりが発する言葉、独白である。これが「宇宙」、「天の川」、「飛行機」……というふうに大きなものから小さなものへという規則を守りながら繰り延べられてゆく。

【分割すること】

  • ナレーターの提示は、ひたすら対象を絞り、分割してゆく。
  • 劇中、ナレーターが提示する最も大きくて遠いものは「宇宙」であるが、それは徐々に「天の川」や「飛行機」のように縮んでゆき、「京都宇治」にいるらしい「妹」のサイズに照準するが、さらに「妹の眼球」から「妹の眼球のなかの遺伝子」、ついには「妹の眼球のなかの遺伝子のなかのミトコンドリア」……というふうに、どんどん分解されてゆく。
  • しかし、ナレーターが提示する対象がどれだけ大きく膨らんでも小さく縮んでも、ナレーターが提示したひとつの何かを、複数の役者が12名を上限とする纏まりで演じるという規則は保持され続ける。
  • つまり、「宇宙」であろうが「病室のベッド」であろうが「ミトコンドリア」であろうと、それらは総て同じサイズの言葉を発し、同じレベルで身体をくねらせるということである。世界のあらゆるものが、ナレーターの提示と役者の身体性によって、ひとしなみにされる。「宇宙」は「ニート暮らし」をしており、「天の川」は「エビちゃん」のような「腰のライン」を誇示し、「少年ジャンプ」はみずからの面白さを自己言及することなどから、ありとあらゆるものが私たち人間のレベルに揃えられ、平準化されていると云ってもいいだろう。全部が擬人化されている、と云っても構わない。
  • だからこの舞台はずっと、人物の顔のクローズアップのショットだけで構成されている映画のようなものなのである。

【退屈すること】

  • ひとつの場面でひとりが喋り、動き、それらは一定の規則で構成されており、そのひとりを複数で構成している12名の役者たちの声や身体の癖もみえるようになってくる。暗い観客席で坐って前をみているこちらが、それまでの時間で獲得した読解と、それによって導き出される予期が覆されることが殆どなくなってくると、ごくあっさりと、退屈が訪れる。
  • 退屈の波のなかで、ぼんやりと、考えはじめる。
  • この世界のこと、などを。
  • 注視するならば、世界は常に、驚くべき変化で満ち溢れている。しかし、私たちはその変化の相だけで生きているのではない。夜眠り、朝めざめて、私の隣でやはり目を覚ました妻は、きわめて精確に云うならば、昨晩の彼女とまったく同じ彼女ではないし、それは私も同様である。云うまでもなく、彼女や私が生きているからである。しかし、私は、私自身をそう見做すように、昨晩の妻と変らぬ妻として今朝の妻を認識するし、そうでなければ私は、妻と暮らすことなどできないだろう。
  • 日々のくらしで私たちは、実際には間違いなく存在している無数の変化を、夾雑物やノイズのようにして意識のフレームの外で切り取ることで、きのうときょうを地続きで変らぬものとして、暮らしている。変らぬものが退屈であるとするならば、くらしとは、退屈を欠いては成り立つことができないことであると云うこともできよう。
  • さて、この『ある光』と題された舞台で繰り広げられているのは、ありとあらゆるものの平準化であると、さっき書いた。そして、そういうことが行われているということは、どういうことなのか。ごくシンプルにまとめるならば、それは、安定化だろう。これは、たとえば「名前」をつけるという行為に、まっすぐ通底している。
  • 仮に、「私」という言葉を使うと、「この私」はまるで安定した個であるかのように表記することができるが、ちょっと難しい選択を迫られたときなどを思い出してみれば誰だって思い当たることだろうが、「この私」はちっとも安定などしていない。私のなかの私たちがめいめい勝手なことを云いあい、まるで考えがまとまらぬというようなことは、ごくあたりまえのこととしてある。だから、12名の役者がその異質さのままでたったひとりを演じるということは少しも不思議ではないし、むしろ「この私」なるものの実相に近いと云ってもいいだろう。しかし「宇宙」や「病室のいす」は、そういうものではない。むしろ、そういうものではないとかそういうものであると云うようなことすらできない、と云うか、そういうふうに云うことに、殆ど意味がない。なぜならそれらは、私たちとはまったく何の関係も取り結ぶことがないものとして、私たち人間の外側に在るからである。
  • なるほど、「宇宙」や「病室のいす」は私たちが私たちの使用目的に沿って、そういうふうに名づけたり、或いは私たちの手で造られたから、私たちに了解可能なものとして「宇宙」や「病室のいす」として存在する。しかし、仮に、「宇宙」や「病室のいす」からその名前を奪ったからと云って、これらのものがそれと同時に消滅するというようなことはない。名前のない、何かわけのわからないものが私たちの外側にそのまま残るのである。そういうような在り方をしている何かが在るということは、私たちを脅えさせる。だから私たちはそれに「名前」をつけるのである。私たちが何でもかんでも平準化したり擬人化することが大好きなのは、私たちと何の関係もなく、しかしまるでそれに怖じることもないようなしれっとしたふうで、たまたま其処にぽんと在るものに、私たちが、よく耐えることができないからではないか。あらゆるものを分析し、定義し、無数のノイズをカットすることで、私たちは総てを、私たちのものにしてゆくのである。

【衝突することと演劇の秘密】

  • ナレーターの提示のあと、その提示されたひとりを、ひとつの場面で、12名の役者の身体と発話の行為で演じてゆくというこの演劇の規則は、いよいよ芝居の終わりに近づき、あっけなく放棄される。
  • 「妹」であるひとりの若い女の役者が舞台の中央に立ち尽くしていて、彼女に向かって真横から、両腕を水平に大きく広げた男の役者が、墜落する「飛行機」として、勢いよくまっすぐ衝突する。「妹」はなんとなく付き合った男の子供を孕んでいて出産間近であるが、あっけなく死ぬ。しかし、骸から抜け出して「魂」だけになった「妹」は、もうずいぶん前に「魂」になっていた「兄」と再び出会い、「黒焦げの死体になった妹」の胎内でまだ生命を保ち、生まれ出ようとしている「赤ん坊」のなかにふたりで入り、云わば、生前は果たせなかった兄妹の近親相姦を成就したところへ、やってきた「月の人」に拾われて宇宙へ旅立ってゆくのである。
  • いよいよ神話のような彩りを濃く帯びて終るこの芝居のストーリィそのものは、特に論じたいことではない。芝居の終わりでそれまで維持され続けてきた規則が放棄されてもなお、この芝居を駆動してきたあらゆるものの平準化はまだ旺盛に作動していること−−例えば、「妹」や「兄」は死ぬがその「魂」は残っており、その「魂」は生前の彼らとまるで変わらない−−だけを確認できればよい。
  • この芝居を終わりまでみて、興味を覚えたのは、「生」を「死」を「宇宙」を「病室のベッド」を「少年ジャンプ」を「ニート」を「ダイエット」を「モンダミン」を次々とひとしなみにしてきたこの演劇が、その総てを均す作業に失敗したものはあるのか、ということなのである。それはむしろ失敗ではなく意図的なものであるかもしれないのだが、兎に角、容赦なく振るわれ続けてきた平準化の力をよく行使し得ることができなかったものが何かあるのだろうか、ということなのである。
  • ストーリィのレベルで云うならば、それは神話的な色を帯びた、妹と兄の秘められた恋愛であるかも知れない。しかし、そうであるなら、硬い椅子で一時間半の芝居をみた意味がない。演劇でなくても、漫画であれ小説であれ、他のどんなジャンルの表現でも、その程度なら充分にうまくふたりの恋愛を救うことはできるだろうからだ。
  • もう、くだくだしく述べるまでもないだろう。この演劇が、たったひとつ平準化することに失敗(または回避)したのは、演劇そのものである。演劇なるものが持っている力である。
  • それは、ひとりずつまったく顔も姿も違う12名の役者が、どうしてたったひとりを演じることかできるのか?ということであり、どうして「妹」に、両腕を真横に広げた男がぶつかるだけで、まるで飛行機が墜落して少女の暮らすひとつの町が燃えて彼女も死んだというふうに感じ、思わず胸のなかでちいさく「あっ」と叫んでしまうのはなぜなのか?というようなことを可能たらしめる力である。
  • この舞台は、ありとあらゆるものに私たちと同じ言葉を喋らせ、私たちと同じレベルとサイズにひきずりおろす演劇だったわけだが、そもそもそれを可能としたのはそのような演劇の力であり、結果、演劇の力だけは平準化を被ることを免れている。つまり、この『ある光』と題された舞台は、演劇の力への信仰を、ひたすらに示した舞台だったと云ってもいいだろう。これは演劇を覆したり否定したりする演劇ではない。演劇へ全面的に帰依した演劇だった。

【劇評すること】

  • しかし、こうやってつらつらと考えてくると、当然ひとつの問いの前に立たされることになる。
  • なぜ演劇はそういう力を持つことがあるのか、という問いである。
  • 云うまでもないが、これを考えることは、今私たちがずっとみてきた『ある光』という舞台の仕事ではない。もろちん、それを考えていないからダメだなんて、云っているのではない。
  • 劇場という空間の客席と名づけられた暗がりに坐って、舞台を注視することで、そういうようなことや、そういうようなことではないことを、あれこれと考えて、何かを書くということが、劇評というものの仕事なのだろう。
  • それは単に、じぶんの裡でめいめい勝手にぽこぽこと生まれた何かを書くということではない。
  • それでよいのだったら、わざわざ舞台をみて書く必要がない。
  • あくまで、じぶんの外に、じぶんとは無関係に、しれっとしたふうに在る舞台というものと衝突することによって、じぶんの裡に生まれた考えなり想念を、何とか書き留めて文のかたちにしたものが、劇評なのであると思う。