『ドラゴン・タトゥーの女』をみる。

  • 晩御飯を食べてから、柚子との隣町のシネコンまで出る。パン屋であすのパンを買ってから、デイヴィッド・フィンチャーの『ドラゴン・タトゥーの女』をみる。原作を読んでいないが、物語のレヴェルやキャラクタのありようはジュブナイルのそれである。
  • しかしトレント・レズナーのつくる徹底して磨き上げられた音響が、この映画の最大の醍醐味である。たぶん単なる無音の瞬間さえなく、そのときも沈黙らしさをつくる音が鳴っていて、サウンドトラックはまるで空間恐怖のようにびっしりと埋め尽くされているふうである。あらゆる映像が音響に奉仕している映画なのである。音響の容れ物として映画を撮ることの実験を、まるでフィンチャーは行っているかのようである。映画が終わってから柚子が、えげつないシークェンスは目を瞑ってやり過ごそうとしたのだが、そうしても音が怖くて逃げられなかったと苦笑していた。映画をみながら私たちは、目を瞑ることはできても、耳を瞑ることはできないのである。
  • フィンチャーは、凝った映像をつくることを放棄しているようでさえある。いや、冒頭から凝りに凝った映像はたびたび出現する(時折カラックスの『ポーラX』みたいな感触のショットが紛れ込んだりする)し、如何にも嫌なものが映るショットはあるのである。しかしそれらはまるで怖くなくて、私が、まったく嫌になるくらいどきっとさせられたのは、そういうときよりも、画面を古ぼけた写真が占める瞬間なのだった。半世紀ほど前のモノクロのスナップ写真の数葉を連続して並べて動かしてみせたり、リュック・タイマンスの絵を想起させる額の広い少女が、上目遣いでカメラのレンズを睨んでいる写真だとか、トーマス・ルフの「ヌード」シリーズのような、輪郭も色も溶けてぼんやりとなった少女の裸体の写真が銀幕に現われるとき、画面の緊張度は最高潮となる。