• 朝、柚子に頼まれて居間のエアコンのフィルタを風呂場で洗う。
  • 食事を済ませて、出かけるときも雨は降っている。いいかげんな世話しかしてやっていない梅の木も、やはり雨が降ると、いつもより活力を漲らせているようにみえる。「桜伐る馬鹿、梅伐らぬ馬鹿」という言葉かあるそうだが、馬鹿に伐られているうちの梅は可哀想である。ならばせめて、どんどん水やりをやれ、ということなのだけれども。
  • 夜になると雨は止んでいた。
  • たとえば映画や美術や書物でも、私の好きなものなら何だっていいけれど、それらを堪能することが目的ではなく、別のことをするための道具として使われている、というふうにみえてしまうとき、私は過敏に、深い嫌悪を抱く。たとえば、映画は何かのために在るのではなく、映画として在るのである。それ以外のありようはそれがどんなに御立派なものであろうと、総て副次的なことでしかない。藝術は「動員」のために在るのではない。
  • 先日、ういちゃんの映画の試写のあとの渋谷の居酒屋でも西中君は云っていたけれど、以前からずっと彼が語っている「批評は動員の道具ではない」という見解には、全く首肯する。「動員」という言葉を彼が使っているのは、とても示唆的で、もちろんこれは、もともと軍事の語彙である。