• 実家の近くの散髪屋に行って髪を切る。地主に土地を返すときには更地にせねばならず、家をぶっ壊すのも数百万かかるというような話を聞く。堂島のジュンク堂から梅田のタワレコをぶらぶら覗いて、しかし何も買わずに帰る。柚子が買ってきてくれたピザを食べる。
  • 真夜中に市川崑の『悪魔の手毬唄』をみる。木の根が逆さまになって空を覆っているような枝の下で、男女が向かい合っている最初のショットから、タイトルが入るまでの間のショットの繋ぎ方(それは絵だけでなく音とも結ばれていて、襖や戸が滑る音が連続することで、素早く切り詰められたショットがばらばらに飛び去ってゆかないようにしている)の緊密さに、ひどく感心する。画面の奥の壁をぼうっと明らめている光の塊だったり、暗くて寒い水の広がりだったり、娘たちの着ているセーターと岸惠子の着物の色が、手毬の糸の色と揃えてあったり、市川崑の映画でしかみられないものに喜んだりする。ときどきフェードアウトでショットの切り替えを行うときがあるが、音声は残してあったりするので、とにかく市川崑は割れないところもカット割りをしたいのだなと思い、ふと、市川崑の映画にはジャンプカットしかないのではないかと思う(もちろん、通常指示されるところのそれとは異なる)。
  • そういえば『病院坂の首縊りの家』も、この『悪魔の手毬唄』も、写真と強姦をめぐる映画だと気づく。男は「声」だけであり(今作では顔のない活弁士であり、『病院坂』ならシャッターを切ることを強要する「声」)、それはつまり暴力そのものである。