• スナップ写真は疾しい写真だ。人間を盗み撮っていないときでも痒みのような疾しさに疼く。写真を撮るようになってから、家や建物は始終鳴っていることを知った。古いベランダの床をそっと人が踏んで、階下の様子を窺おうとしているような音や、建てつけのよくない窓を、目玉ひとつ分だけ開いたような軋みとか、息を潜めて写真を撮っている私をひやりとさせる音が、誰もいないだろう家のあちこちから、ひっきりなしに発している。家々が犇めく路地に入り込んで写真を撮っている私の姿は、空き巣狙いに酷似しているだろうし、やっていることはそれほど変わらないと思っている。私の感じている疚しさは、「何撮っとるねん!」の罵声を浴びせられることへの怯えも含んでいるが、それだけではないからだ。隣接しているというだけの家々をフレーミングして勝手に関係性を生じさせて撮ることが、同じように人間を盗み撮ることより疚しさから自由であるかといえば、そうでもないからである。たとえば、笠井爾示の『東京の恋人』は見事な写真集の一冊だが、あの中に出てくる下着姿の女たちの写真を見て疚しさを感じることはなかろう。すぐ目の前のファーを着た女性の背中のシルエットに、撮影者の影が重ね合わされているリー・フリードランダーの写真を見たときに疼くものが、痒みのような疚しさである。