• 野村修の『スヴェンボルの対話』を風呂の中で読み終える。とてもいい本だった。新しいベンヤミンの翻訳もどんどん出るようになって、野村修のことは忘れるようになっていた。これは1971年に出た本で、1930年生の野村は40歳だ。タイトルには三人の名前が出ているが、本の最後はアドルノの「絶望」をめぐる野村自身の「ひとごとではない」、「セイレーンの歌を呼びさます志向の現実化をめざしてゆくことの必要と困難とを、ぼく自身のために、もういちどかえりみ」るための、批評文で終わっている。それは、誠実で精巧ではあるが「少なくともまだかなり長いあいだ、紙の上をしか運動できない」だろうアドルノの批判に対して「しかし、と僕はいわねばならない」というための批評文である。
  • 結局私のいちばん好きな詩人はブレヒトだ。ドイツ語では読んでいないので、長谷川四郎と野村修の日本語の翻訳によるブレヒトの詩というのが精確だろう。
  • 社会や意識をもしかしたら変えられるかもしれないと思っていた頃の学者たちの、論文ではない、ぶらぶら散策の跡のようなものとしての批評という文。今は、論文と感想文しかなくなってしまった。