• 昼過ぎから京都に出る。染・清流館のグループ展に出ている、むらたちひろさんの二枚一対の作品をみる。枠に張られたカンヴァスを用いて、イメージが浮かんでいる。絵画のようにみえるが、支持体の上に画材を積み重ねてゆく絵画とは異なり、支持体のなかに、支持体の地下に、染み込んでゆくのが、染色であると、むらたさんが説明してくれる。だから、裏からみると、ほぼまったく表と変わらないイメージがみえるという(絵画ではそんなことはほとんどなくて、裏は支持体の材料そのままをほぼ残している)。じーっと画面をみつめていると、眼が拡散し、惑い、揺さぶられる。
  • 京都芸術センターで「ケソン工業団地」展をみる。3階の資料展示がいちばん興味ぶかかった。J・トライアンギュラーの和室の展示もみて、帰る。

  • むかし、いい芝居をつくっていた友だちが、どうやらネトウヨになってしまったみたいで、歴史には通り一遍の興味しかなくて兵器のスペックだけが好きなひとだったので、近代史のお勉強というワクチンによる抗体がなかったんだろうけれど、やはりそれなりに悲しい。ツイッターでやりとりをしても、裏づけのないことばかりを喋るので、当然だが議論などにはならない(向こうはパヨクをロンパぐらいに思ってるだろうけれど)。残念だけど、上念司とかフォローしてる輩は、やっぱりバカだな。あと、その旧友が嬉しそうにリツイートしていた田中秀臣の記事を読んだけれど、その劣化ぶりには、あきれ果てた。あいトリの「表現の不自由展」は、日本人へのハラスメントなんだったって。アホすぎる。先日の『ブルータス』の名古屋特集でSKE48を語っていたけど、ほんと的外れというか、こいつ全然今のSKE知らないだろ……と思って、哀れだった(こんなのにインタヴュする編集者もそうとうセンスがない)。部屋のどっかには田中の本もあるだろうから、こんど出てきたら棄てよう。しかし、リフレ政策の実現のためには安倍のケツでも何でも舐めることにしたのかもしれないけれど、それがこのクソ増税だから、何もいいことなかったね、と申し上げるしかない。
  • そのネトウヨ氏から「おまえはパヨクか?」と問われて咄嗟に「保守反動左翼だ」と答えてしまったが、これからはブレヒト派と名乗ることにしようと思う。

  • ギャラリーパルクの「像を耕す」展のクロージング・トークを聴きに行く。家に帰って、洗濯物を取り込んで、河出文庫の『ベンヤミン・コレクション』(いろんな翻訳があるが、私はこれがいちばんしっくりくる)をめくる。「翻訳者の課題」は、藝術作品が「受容者を考慮に入れることが実り豊かなものとなるということは決してない。「理想的な受容者」でもダメで、「必ずや本来の道から足を踏み外してしまう」という。「いかなる詩も読者に向けられたものではなく、いかなる絵画も鑑賞者に、いかなる交響曲も聴衆に向けられたものではないからだ」。そして「ボードレールにおけるいくつかのモティーフについて」では、こうだ。「無数のしぐさのなかで、写真家が「パチリ」と押す動作がとくに重要なものとなった。ある出来事をいつまでもとどめておくには、指でひと押しすればこと足りた。写真機は瞬間に対して、いわば死後のショックを付与したのだ」。
  • 蒲団に転がって、長谷川四郎が編訳したブレヒトの詩集を、またぱらぱらと読んでいる。いつの間にか眠っていた。

  • 朝、公園を通り抜けるとき、砂場のへりに腰掛けて、砂のトンネルを掘っている小さな男の子を見つめながら、父親だろう男が、缶ビールを呑んでいた。
  • 夜、山本君と電話で話す。どうしたって、写真の話になる。「考える前に撮らなきゃダメだよー」と、やっぱり云われて、頭を掻く。

  • 須田亜香里AKB48としてSKEからたったひとりで『ミュージックステーション』に出るので、職場からばたばたと帰宅して録画する。肩を出した衣裳の須田さんの、よく鍛えられてなめらかな背中は、とてもきれいでほれぼれする。須田さんは後列でもどこでも必ずきらきらしているけれど、もっと前のほうでぎらぎらしているほうがより素敵だ。
  • 洗濯物を干す。ぽつぽつと雨が降ってくる。自転車のブレーキを軋ませて、柚子が帰ってくる。
  • 畠山直哉の『まっぷたつの風景』をぱらぱらとみながら、好きなように撮るしかない、じぶんで決めて撮るしかない、と思う。
  • ジジェクふうにいうなら、我が国はもう「国家を無化する国家」としての「珍国家」みたいなものなのかもしれない。
  • タランティーノについては『ユリイカ』に載せた批評のゲラをなおしているとき、最後の一行をやっと思いついたので、これはもう少しいける。なので、あと一本は書くつもり。このままでは終わらせない。
  • 昨夜に引き続いて、写真を選んでtumblrに貼りつけている。ジャン・ジュネの『恋する虜』を買った。

  • 柚子と昼から出かけて中之島公会堂マシュー・バーニーの『リヴァー・オブ・ファンダメント』をみる。『クレマスター』の全上映会にも柚子は付き合ってくれたのだった。
  • 未分化の、なにものに変化するかまだ決定されていない粘液を溜め込んだ袋には、開閉の調節可能な弁のついた穴があり、そこからいろんなものが出たり入ったりする。入るものは14分割されたアメ車や頭蓋にのめり込む銃弾から出るものは大便やら水銀の精液までさまざまだが、このイン/アウトの運動がひたすら繰り返される。このイン/アウトをし続ける存在としての自動車から人間の営みが捉えなおされる。逆ではない。
  • KJも激務のなか見にきていて、帰りに三人で淀屋橋駅のベローチェでちょっとお茶をする。

  • 朝いちど起きて、柚子が出勤するのを見送り、ペットボトルを棄てておいてねと頼まれる。蒲団の上に転がって眠る。
  • 昼前に起きて、公園の外まで、資源ゴミがまだ出されているかを確認しに行く。小雨が降っているので、白濁色のビニール傘をさして。家に戻り、カメラを首からぶらさげて、ペットボトルばかりがいっぱいに入った驚くほど軽いゴミ袋を持って、公園のいちばん向こう側まで歩く。写真を撮る。うずたかいゴミ袋の山のなかで、それを積み替えているのか何かを漁っているのか、こちらからは彼女の背中と尻の一部しかみえないおばあさんがいるのに、ようやく気づく。ゴミ袋を置いて、そっと立ち去る。入ったことのない路地に入り、写真を撮る。写真を撮るのは、とてもやましい。もの盗りが空き巣を物色してうろうろしているのと、たぶん同じだから。シャッターを押すために一瞬立ちどまるたび、ひやっとする。