• 新開地まで出て、シネマ神戸でジャック・リヴェットの『デュエル』と『ノロワ』を見る。『デュエル』はパリのいかがわしいダンスホールを舞台に、いきなり鏡が割れたり異能者たちの超能力バトルみたいになってゆくのは面白かったが、掴み損ねているうちにしばしば眠ってしまう。
  • ノロワ』は冒頭の耳をつんざく波の音と、アルトマンの『ウエディング』の頃のジェラルディン・チャップリンが浜辺で復讐の言葉を英語で誓いながら弟の死体を撫でさする滑らかとは言い難い奇妙な手の動きや、つるんと美しい拡がりの額などに見惚れているうちにあれよあれよと、ベルナデット・ラフォンの演じるゴージャスな女賊との最後の決闘まで辿り着く。黒いドレスの女が小銃をステッキのようにして海に向かって立つショットや、浮桟橋のざぶりざぶりの大揺れを何とか撓めながら掠奪してきた大箱小箱を船から運び出すシークェンスや、蝋人形のような弟の死体や男たちの剣戟や裏切者への罰や『宮本武蔵』のようでもあり『必殺仕事人』のようでもある最後の戦いや、画面に映りながらサウンドトラックを奏でるジャン・コーエン・ソーラルたちなど、何もかもバロックっぽく、あらゆるものが作り物めいているせいで、ダンスは死闘に、死体のふりはすぐに本物の死体に成り代わってしまうし、その逆も然り。とても奇妙で、とても素敵で、たまらなく好きな映画だった。
  • たまたま映画館で出会った資料館のTさんに映画が終わってから「これはすごいですね」と言うと、「お好きだと思いました」と笑顔が返ってきた。

  • IZ*ONEの《Mise-en Scène》には「ミーザンセーヌ」とそのままするっとひと繋がりに歌うところと、「Mise-en」で溜めて「Scène」でぐーっと延びるところがあるのだが、この中断と解放が聴きたいばっかりに、何度も繰り返しリピート再生している。
  • 映画を見に行こうと傘を持って家を出たが、途中でマスクをしていないのに気付いた。わざわざ買うのも面倒なので、映画は後日にすることにして、家に戻る。「しま」が降りてこいと階段の下で鳴いている。ネグリ=ハートの『アセンブリ』を読み始める。「憤怒や怒りは、成果のないままわだかまり、だらだら長引くとき、絶望か諦めに崩れ落ちてしまう危険性がある。」「政治思想の中心的な任務の一つは概念をめぐって闘争すること、すなわち概念の意味を明らかにしたり変容させたりすることだ。起業家活動は、社会的生産にやけるマルチチュードの協働形態と、政治的な見地から見たマルチチュードの集会=合議体(アセンブリ)を繋ぐ蝶番としての役割を果たすのである。」この本でいちばん最初に引かれるのはヘーゲルの言葉で、そして「蝶番」というのは「扉がそれを中心にして回転する軸のことである」と始まるドゥルーズの「カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について」を思い出させる。

  • 朝ゴミを出して飯を食ってから、シネ・リーブル梅田で青山真治の『ユリイカ』を見る。公開時には会社の机に横長のチラシを貼って、退職するまでずっとそのままにしていたぐらいなのに、映画館で見るのは初めて。
  • 小学校の時の同級生(テストの答えを見せてやった程度で、親しかったわけではない。頭が悪くて気が弱くてイキりの、つまり馬鹿だった。小学校を卒業してから会ったこともない)が、十年ぐらい前に沖縄で死んで、その時のことを映像で見たような記憶があったのだが、それはこの映画で兄妹たちの父親の自殺のような自動車事故のショットだった(今調べたら同級生が死んだのは夜じゃなくて朝だった)。『ユリイカ』初見のときの自分は、青山真治という同時代の映画作家に厳しすぎたかもしれないと思った。アメリカ映画を懸命に模しても、どうしたって日本でしかなくて、ちょっとみっともないとすら思っていたが、幾らアメリカ映画をやろうとしても決してアメリカ映画になってくれないのが日本の映画なわけで、それは金村修が東京で幾らフリードランダーをやろうとしてもどうしても汚い看板やらが入ってくると言っていたのと同じだ。アメリカ映画でもヴェンダースでもいいが、それを真面目にやればやるほど純化された日本映画が出てきてしまうというのが、青山真治の映画だったのだ。土木工事の現場と、事務所の水の流れのあるどちらも朗らかでもの悲しいシークェンス、バスの壁の共鳴し合うノックと、それに気づかず眠っているものの安らかな寝顔のショットがちゃんとあることの優しさ、宮崎あおいがポラロイドで役所広司をシュートすることで、バスジャックの射殺の暴力が反復されながら別の場所に転り出るシークェンスの鮮やかさなど(アイラ―の《ゴースト》がこの映画で流れるのは象徴的で、あの時代からずっと私たちはゴーストに就いて、今も考え続けているはずだ)、田村正毅の見事なカメラも相俟って、とても美しい箇所が幾つもある。鳥の声を案内するラジオ、送られ続ける信号(窓辺の電燈、壁のノック)、奇妙な共同生活、噴出する暴力と殺人、総てを呑みこむ大洪水、と画面を見つめながら、もちろんジョン・フォード北野武も思い出しつつ、しかし最も大江健三郎の『洪水はわが魂に及び』を思い出した。『ユリイカ』がそれだったとすると、青山には、彼にとっての『懐かしい年への手紙』や『取り替え子』を撮る可能性もあったわけだ。R.I.P.
  • 須田亜香里が劇場公演で卒業発表したらしい。今日だーすーが劇場に出ていることすら知らなかったぐらい今自分はサケカスとしては終わっている。でも、よくここまで続けてくれたなあ、ありがたいなあという気持ち。須田亜香里がいなければ私はドルヲタ(とてもヌルいけれど)になることもなかった。9/24のガイシの卒コンは何としても行きたい。もう一度SKEファミリーに入りなおすか。

  • 朝帰ってきて町内会の年に一度のドブ掃除。庭の木を伐ろうかと思うが、どうして伐ったらいいのか考えるため、家の前にじーっと立ち尽くして木を眺めるだけで終わる。
  • エレム・クリモフの『炎628』をBDで見る。物凄い。どのシークェンスの画面も音響も強烈なイマジネーションの発露で、眼も耳も引っ張られ続ける。『ロマノフ王朝の最期』でもそうだったが、写真というメディアと、過去の映像の使い方が本当にクリモフは巧い。カラックスの『ポーラX』やらタランティーノの「歴史」映画のこともぼんやり思い出すが、間違いなく本当にやばい映画。ナチの蛮行を、これでもかとヴィジュアリストの力を用いて画面に実現させながら、フッテージ映像の高速の巻き戻しだけで、独裁者のヒトラーを殺すのは是とするとして、では、生まれたばかりのヒトラーを殺すことは肯定されるのか?と問うてみせる。ぐったりする。クリモフの映画に就いて書いてみたいと思った。

  • 朝からBDでシドニー・ルメットの『狼たちの午後』を見る。こんなに奇妙で素晴らしいメロドラマだったのかと瞠目する。オペラのようだ。
  • 兵庫県立美術館で「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」展を見る。ダン・フレイヴィンの「タトリン」のすぐ眼の前に立つと、じぃぃぃぃっという蛍光灯の放つノイズと、肌にじわりと痛い熱を感じる。やがてぼんやりと、この音や熱こそが、ミニマリズムやコンセプチュアリズムの美術の核なのではないかと思い到る。ミニマリズムの作品には、どうしても写真で接することのほうが多いので、クールなシステムの反復的な実現にばかり意識が向いてしまうが、少なくとも今回の展示で集められたコンセプチュアルなミニマリストたちは、むしろシステムからはみ出すものを滲み出させるために、そういう表出のやり方をとったのだろう。反復の果てに搾出されるものとは、作者が生き続けることへの渇望なのではないか。河原温の絵葉書のシリーズは、ずばりそのもの「私は今生きている」だし、コンセプチュアリストたちがしばしば行う、作者が展示の現場にいなくても指示書だけで作品が生成されるというのは、作者の手の不在の肯定というクールなものではなく、作者の肉体が滅んでも、作者は生き続け作品も作られ続けるというゾンビのような目論見なのではないか。
  • ブルース・ナウマンは露悪的なほど、ミニマリズムの核にあるゾンビのような生の欲望と向き合っている。むしろ、その欲望とどうやって手を切るかを、考えているように思われる。1973年の「イエロー・ボディ」展のためにコンラート・フィッシャーと交わした手紙も展示されていたが、そこには「この部屋の中にとどまることはとても難しい。自分でもあまり長くはいられない」とあった。自分が安らぐことのできない、自分さえ追い出すためのミニマルなコンセプトで作品を作る。ナウマンがどうして重要な作家なのか、やっと判った気がした。もうブルース・ウェーバーと間違えることは決してないだろう。
  • 摩耶ランプのあたりまで写真を撮りながら歩く。何を撮っていても「盗撮や」という馬鹿は少なくないんだというのは覚えておこう。