- 朝からBDでシドニー・ルメットの『狼たちの午後』を見る。こんなに奇妙で素晴らしいメロドラマだったのかと瞠目する。オペラのようだ。
- 兵庫県立美術館で「ミニマル/コンセプチュアル:ドロテ&コンラート・フィッシャーと1960-70年代美術」展を見る。ダン・フレイヴィンの「タトリン」のすぐ眼の前に立つと、じぃぃぃぃっという蛍光灯の放つノイズと、肌にじわりと痛い熱を感じる。やがてぼんやりと、この音や熱こそが、ミニマリズムやコンセプチュアリズムの美術の核なのではないかと思い到る。ミニマリズムの作品には、どうしても写真で接することのほうが多いので、クールなシステムの反復的な実現にばかり意識が向いてしまうが、少なくとも今回の展示で集められたコンセプチュアルなミニマリストたちは、むしろシステムからはみ出すものを滲み出させるために、そういう表出のやり方をとったのだろう。反復の果てに搾出されるものとは、作者が生き続けることへの渇望なのではないか。河原温の絵葉書のシリーズは、ずばりそのもの「私は今生きている」だし、コンセプチュアリストたちがしばしば行う、作者が展示の現場にいなくても指示書だけで作品が生成されるというのは、作者の手の不在の肯定というクールなものではなく、作者の肉体が滅んでも、作者は生き続け作品も作られ続けるというゾンビのような目論見なのではないか。
- ブルース・ナウマンは露悪的なほど、ミニマリズムの核にあるゾンビのような生の欲望と向き合っている。むしろ、その欲望とどうやって手を切るかを、考えているように思われる。1973年の「イエロー・ボディ」展のためにコンラート・フィッシャーと交わした手紙も展示されていたが、そこには「この部屋の中にとどまることはとても難しい。自分でもあまり長くはいられない」とあった。自分が安らぐことのできない、自分さえ追い出すためのミニマルなコンセプトで作品を作る。ナウマンがどうして重要な作家なのか、やっと判った気がした。もうブルース・ウェーバーと間違えることは決してないだろう。
- 摩耶ランプのあたりまで写真を撮りながら歩く。何を撮っていても「盗撮や」という馬鹿は少なくないんだというのは覚えておこう。