• 仕事を終えて、シネリーブル神戸で柚子と待ち合せてポール・トーマス・アンダーソンの『リコリス・ピザ』を見る。私のPTAの映画に対する期待値が高すぎるのか、憔悴しきっている映画にしか見えなかった。素敵なシークェンスもあるのだが、それが映画全体のグルーヴに昂揚してゆかず、疲弊ばかりを感じる。
  • トラックがガス欠を起こしてしまうシークェンスがある。トラックは後ろ向きに坂道を降りてゆくのだが、これは走っているのではない、転がっているだけなのである。燃料が切れてしまっていて、自慢のエンジンは動かない。これが今のポール・トーマス・アンダーソンの映画なのではないか。
  • 1970年代の映画やカルチャーをシミュレーションしている映画なのだと言う人もいる。そんなことは判っていて、問題は、なぜそれをPTAはやっているのか、そうすることで映画を走らせることができているか、なのである。前のように走ることができない、PTAの焦燥ばかりが伝わってくる。長いワンショットは、カットを割らない強さの表れではなく、カットを割れない弱さなのではないか。私もすっかり疲れて帰宅する。

  • シネマ神戸でシャンタル・アケルマンの『囚われの女』を見る。この映画でシモンと呼ばれるプルーストの「私」は、高橋康也の論じるベケットのようなプルーストだ。シモンのふるまいは「悲愴であるが、同時に滑稽でもあ」って「すなわち道化」であり、シモンは自分を、どんなものに「接しても何も思い出すことができぬほどの健忘症である」と語る。「ベケットにおける恩寵の喪失はプルーストとは比較にならぬほど悪化している」と高橋は書くが、アケルマンのプルーストでは「恩寵の喪失」はベケットのそれと比肩するほど「悪化」させられている。サビーヌ・ランスランのカメラもとてもいい。この映画では《コジ・ファン・トゥッテ》が歌われるのだが、アケルマンのモーツァルトの使い方は本当に変わっている。
  • そのまま続けてアケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス湖畔通り23番地』を見る。ずっと見たかったが自分には機会のなかった映画の一本。ここには確かに抑圧と暴力と性欲の街であるブリュッセルがしっかりと映っていると思った。
  • グザヴィエ・ロトとレ・シエクルによるドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》を聴いている。とてもいい。ようやくこのオペラの面白さが判った気がする。

  • シネマ神戸でシャンタル・アケルマンの『オルメイヤーの阿房宮』を見る。レイモンド・フロモンの撮影を含め、何もかも素晴らしい。《トリスタン》の前奏曲が流れるなか鬱蒼としなだれかかる密林の河を遡る船の甲板のへりで、煙草をくゆらす褐色の肌のイゾルデ。二隻の船が行き交う息の長いショット、男の干からびた顔とその上をちらちらする陽光や涙の筋の動きを見つめる静かで緊張したショット、夜の街を歩く少女を横から追うシークェンス、本当にいい。家から逃げる映画であり、逃げるために一度帰ってくる映画であり、家に取り残される映画でもある。
  • 続いてシャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』も見る。これは出張先から家に帰ってくる映画。ヘルムート・グリームを久しぶりに見てちょっと嬉しくなる。女の愛人が密会先で体調を崩す。ホテルを出て、タクシーに乗って、薬局に行って薬を買うまでを追いかける。なぜ摘まんでしまわないのだろうかと思うが、それはその往路での、車中の女の顔の上に滲み出す涙を捉えるためである。それが抽出されるまでには、時間がかかる。その時間をアケルマンは捉えようとする。
  • 商店街を湊川に遡って、上崎書店に寄ってから帰路。

  • シネマ神戸でシャンタル・アケルマンの『私、あなた、彼、彼女』を見る。ようやく女が部屋を出た道路脇のショットの、息をつける拡がりのありがたさ(しかしそこもまた新たな密室かも知れないという不穏さが画面の隅に潜んでいる)。部屋の中でふたりの女がまぐわうシークェンスはクレイ・アニメのような、塑像を練り上げてゆくようなレッスルの美しさ。

  • シネマ神戸でリヴェットの『北の橋』を見る。パスカル・オジエの出てくるところは(それだけではないが)どこもかしこも最高。ビュル・オジエの「過去の火遊び」というのはおそらく1968年の不発の革命のことだろう。怪人クモ男の攻撃を受けて繭の中で眠り込んでしまうパスカル・オジエを、ビュル・オジエがナイフで切り裂いて救出するシーンの美しさ。こちらは母と娘ではなく父と息子だったが、ドン・キホーテの引用から矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴』を思い出したりもする。パスカル・オジエとジャン=フランソワ・ステヴナンの空手のレッスンの跳ね回る楽しさ美しさ。しかし、こんなところで映画を終わらせることが、よくできたものだ。
  • 続けてリヴェットの『メリー・ゴー・ラウンド』を見る。ジョン・サーマンとバール・フィリップスのセッションのパートはひたすらかっこよくて、ときどき彼らの奏でる音楽はサウンドトラックとして別のシークェンスにも流れ込むのだが、これは一体? ジョー・ダレッサンドロが森の中を必死で逃げ回り、マリア・シュナイダーが砂浜を追われるシークェンスもまたとびきり美しく、おそらく彼らの夢のようなのだが、これはつまり何なのだ? 映画なんて判らないのが当たり前なのだが、しかし自分の中で判るようにしながら見ないと判らないことすら判らない。そもそもリヴェットはそこでいきなり起ってしまうことを見事に掬い取ることに長けているのだから、ミステリは向いてないんじゃないかと惑いながら見ていたのだが、モーリス・ガレルの演じる霊媒の男が出てきてから俄然面白くなる。霊媒とは、そこに彼のままでいるのだが、そこにいないものと繋がり、彼ではないものを代理表象してそこに現前させる(かのような状況を作る)ものだが、ようやく『メリー・ゴー・ラウンド』でリヴェットがやりたかったであろうことが判った気がする。しかし、天衣無縫の酔拳の使い手のようなリヴェットでもこんなに混乱してうまくいっていない映画を撮るのかと思うと、おかしな言い方だが、安心する。
  • 映画が終わってもまだ明るい初夏の空。大和家パン店で揚げたアンパンを買って食べる。店に入ると、おじいさんはガラスケースの向こうで、椅子に坐って居眠りをしていた。

  • 2015年以降、今年がいちばん多くこのブログを書いている。たぶんTwitterがつくづく嫌になったことと、しかし、つまらないなりに心が動くこともあれば、それを書き留めておきたいという気持ちがあったからだろう。