• シネマ神戸でリヴェットの『北の橋』を見る。パスカル・オジエの出てくるところは(それだけではないが)どこもかしこも最高。ビュル・オジエの「過去の火遊び」というのはおそらく1968年の不発の革命のことだろう。怪人クモ男の攻撃を受けて繭の中で眠り込んでしまうパスカル・オジエを、ビュル・オジエがナイフで切り裂いて救出するシーンの美しさ。こちらは母と娘ではなく父と息子だったが、ドン・キホーテの引用から矢作俊彦の『スズキさんの休息と遍歴』を思い出したりもする。パスカル・オジエとジャン=フランソワ・ステヴナンの空手のレッスンの跳ね回る楽しさ美しさ。しかし、こんなところで映画を終わらせることが、よくできたものだ。
  • 続けてリヴェットの『メリー・ゴー・ラウンド』を見る。ジョン・サーマンとバール・フィリップスのセッションのパートはひたすらかっこよくて、ときどき彼らの奏でる音楽はサウンドトラックとして別のシークェンスにも流れ込むのだが、これは一体? ジョー・ダレッサンドロが森の中を必死で逃げ回り、マリア・シュナイダーが砂浜を追われるシークェンスもまたとびきり美しく、おそらく彼らの夢のようなのだが、これはつまり何なのだ? 映画なんて判らないのが当たり前なのだが、しかし自分の中で判るようにしながら見ないと判らないことすら判らない。そもそもリヴェットはそこでいきなり起ってしまうことを見事に掬い取ることに長けているのだから、ミステリは向いてないんじゃないかと惑いながら見ていたのだが、モーリス・ガレルの演じる霊媒の男が出てきてから俄然面白くなる。霊媒とは、そこに彼のままでいるのだが、そこにいないものと繋がり、彼ではないものを代理表象してそこに現前させる(かのような状況を作る)ものだが、ようやく『メリー・ゴー・ラウンド』でリヴェットがやりたかったであろうことが判った気がする。しかし、天衣無縫の酔拳の使い手のようなリヴェットでもこんなに混乱してうまくいっていない映画を撮るのかと思うと、おかしな言い方だが、安心する。
  • 映画が終わってもまだ明るい初夏の空。大和家パン店で揚げたアンパンを買って食べる。店に入ると、おじいさんはガラスケースの向こうで、椅子に坐って居眠りをしていた。