『ベルリン・フィルと子どもたち』を観た。

  • パワーのある老人には、決して勝てない。
  • 「嘲笑的な態度を取ったり、にやにや笑うのは怖れがあるからだ」、「怖れは総て身体に出る」、「新しいことに挑もうとするとき励ましてくれず笑っている奴、それは君の本物の友達か?」、「終焉に向かう大人ができることは子どもたちの皮膚の下に滑り込み、さなぎの彼らを脱皮させてやることだ」などなど、コレオグラファのロイストン・マルドゥームの次々と炸裂する説教が素晴らしい。ちょっと亀仙人に似ているこの老人の顔が、実にいいのだ。下町のイタリア料理屋の隅のテーブルにいつも座っている、マフィアの首領みたいな風貌なのだ。ところで、カーテンコールで翁はアルミの松葉杖を突いているのだが、いったい何があったんだ!?
  • クラシック音楽は金満家の老夫婦のオモチャじゃない。誰にでも開かれている最高の芸術だ」と語り、中・高生たちが『春の祭典』を踊るためのBGMに、ベルリン・フィルストラヴィンスキーを指揮するサイモン・ラトルは、啓蒙が大好きだ。20世紀現代音楽を彼が紹介する『Leaving Home 故郷を離れて』と云う番組は、とても良かった。彼の啓蒙癖は、既に死んだ芸術であるクラシック音楽を再生させ得るだろうか? 或いはそれはクラシック音楽と云う名の文化産業の延命でしかないのか。ちなみに私は彼のよい聴き手ではまるでないが、ウィーン・フィルを振ったリヒャルト・シュトラウスの「メタモルフォーゼン」はとても好きだ。
  • ところで、この映画に出てくる十代の子どもたちは皆、ストラヴィンスキーに拒絶的なのである(唯一の例外はDJらしき男の子だけ)。私が『春の祭典』を、ブーレーズの最初の録音で初めて聴いたのもまた、彼らと同じ年の頃だったが、実に親和性が高い音楽だと感じたものであるが。彼らにとっては、やはりヒップホップなどのほうが皮膚にしっくりくるのだろうな。いや寧ろ、子どもたちはそういうふうに思い込んでいる、と云うか、複数の音楽の選択肢を持たされていない、と云うべきなのだろうか。