國分啓司『歌劇 空見れど』を見る

  • 昼前に起きて、大阪音楽大学に向かい、國分啓司の初めての『歌劇 空見れど』*1 *2をみる。音楽は舞台の上に置かれたピアノと、録音された素材により奏でられる。
  • 人類がほぼ死滅し、残った人びとはファシストたちによるスペクタクルな社会で暮らしている。完全に客観的な立場を獲得して世界を視、それをナレーションしたいと願う駆け出しの「ナレーター」と云う國分自身の演じる青年が、「謎の人」と、「お師匠様」と呼ばれる女性と出会い、天竺を目指すことはなく、ロック・バンドを結成してめくらめっぽうな歌を唄いまくるが、活動をファシストに妨害されて解散を余儀なくされ、閉塞感を抱えたまま放浪する「ナレーター」はファシストの公共事業であるロケットの打ち上げを阻止しようとして、そのままロケットと共に宇宙まで飛ばされる。宇宙まで吹き飛ばされた彼は地上にいる嘗ての仲間たちと言葉を交わし、「きみは絶対に歴史に名前なんて残せないから」と云われ、いい笑顔を浮かべる。そして、「ひこうき雲」がキャスト、スタッフの全員で合唱され、『歌劇 空見れど』は終わる。
  • ものすごく粗削りで、各々のシーンは構成と呼ぶよりも寧ろ、國分がいま舞台に乗せたかっただろうことだけを集めて縒り合わせられている。引用される幾つものポップスや映画の情景は「此処から抜け出したい」と云う強い衝動で共通していて、上演前に場内で流れる音楽が1970年代のオデュッセイアである『地獄の黙示録』で使われたドアーズの「ジ・エンド」であるのは決して偶然ではないだろう。
  • 國分は、世界とじぶんの違和感で七転八倒していて、なるほど舞台は洗練はされていないが、その長引く風邪のようなアドゥレセンスの懊悩と彼は、充分に向き合えていて、それは舞台で確かに強く表現されている。國分が、いまのじぶんの総てを吐き出したと云う意味で、この舞台は或る完成を達成している。しかし、國分が此処でそれに満足してしまうなら、その達成は失敗だったと云うほかないだろう。アドゥレセンスの栄光と悲惨を作品として対象化し、感得したのなら、國分は次の舞台を、みずからの手で再び立ち上げなければならないはずだからだ。この歌劇は、最初の一歩として確保されること、決定的な始まりの痕跡を徴してしまったと云うことに於いて優れているのであり、これを締め括りだと固定してしまうなら、この「歌劇」の良さの総ては雲散霧消して果てるだろう。
  • 滅多にアンケートは書かないが、きょうは書いてみた。次の公演の案内を送ると書いてあったからだ。
  • その後、梅田でI嬢(いつものことながら可愛いと大書しておく)とMT君と会い、茶屋町スターバックスでひたすら駄弁る。音楽のことやら、あれやこれや、やら。
  • DVDを返却し、帰宅。柚子がクリームシチュウとマカロニサラダを作ってくれたのをふたりで食べる。
  • この頃、風呂に浸かりながらまた本を読むようになった。東浩紀の「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」を読んでいるが、本当に面白い。