チェルフィッチュを観る。

  • 菊地成孔ダブ・セクステットの『The Revolution will not be Computerized』を聴いたり(これまでの菊地成孔のオーセンティックなジャズの仕事のなかでは、いちばん好きなアルバム)しながら、絲山秋子『袋小路の男』を読み始める。
  • 中之島国立国際美術館で、チェルフィッチュの『三月の5日間』を観る*1。いつもなら諸々の美術作品が展示されているギャラリーの一部に仮設の舞台をしつらえて、上演された。
  • われわれの言葉は、云い澱んだりループしたり結論が出ないままだったり話が終わらなかったり始まらなかったり、したり、する、ものである。われわれはだから、それらを理解するために、その総てではなく、其処から切り貼りしたものを参照している。であるから、われわれの言葉には、常に、そう云うふうに取りこぼされた何ものか、が、存在している。寧ろ、それら無数の取りこぼされた何ものかが、われわれの言葉とか身体表現とかコミュニケーションの行為と云ったものを支えており、基礎づけている、と云うべきであろう。
  • この演劇では、ふらっと、役者らしからぬ役者たちが出てきて、……と云う話をしようと思ってるんですよ、とか、はじめようと思っています、などと云う言葉が、観客席のわれわれのほうを向いて、発せられる。しかし、其処から舞台と客席に、安定した関係が築かれるかと云うと、そう云うわけではなくて、観客席に投げ掛けられたように見えた言葉は、そのうち、ブーメランの軌道よろしくするすると弧を描いて、客席ではなく舞台上の役者のほうへと、収斂してしまうようにさえみえる。しかし、客席からはたびたび笑いが起こり、私もその響きのうちの幾つかを発していたのだったが、この笑いは何なのだろうか? それは、舞台で行われている演劇(?!)を、観客の側が、懸命に回収しようとする行為なのではなかったろうか。笑うことで、目の前で生起している「それ」に切れ目を入れ、理解し得るものにしようとする行為。ラカン、いや寧ろジジェクなら回収する〈象徴界〉と回収され得ぬ残余としての〈現実界〉と云う言葉を用いてその行為を説明するかも知れない。〈現実界〉ではなく、〈想像界〉なのかも知れないが。
  • では、観客席からの切り取り行為は巧く成し得ることができていただろうか、と問うと、やはりこの舞台は、それに抗して、そのあまりにも見事な幕切れを含め、回収され得ないものとして、持続することを保ち得ていたと思うのだ。
  • だからと云って、この舞台は何か特別なものやことを用いて、それを実現しているわけではない。当然のことかも知れないが、われわれが日々、普通に用いている言葉や身体の揺れやブレと云ったものを使って、この舞台は織られている。
  • しかし、先にも述べたが、われわれは日々、言葉や身体の総てを充分に意識しながら用いているのではない。それらは取りこぼされながら----いや寧ろ、取りこぼされることに於いて初めてそれなりに有効なツールとして活用し得るようになる言葉やコミュニケーション行為なるものを、この舞台は丸ごと描き出そうとしている。取りこぼされている部分こそを強調しながら、と云うほうが正確だろうか。だからこそ、観客席からは、過剰なほどの笑いが発せられる。此処までずっと「笑い」と書いてきたが、あれは寧ろ、悲鳴であったと思うのだ。幼い子どもが、恐怖に搾りだされて泣くのと同じような。
  • 原初的な、あたたかい泥濘のようなもの、に、われわれは馴れていない。しかし、演劇とか藝術一般が存在することの意味は、こう云う取りこぼし続けているものさえ、われわれの目の前に引っぱりだしてくることができるから、である。
  • 付け加えるならば、この作品は、戦争の開始あたりから五日間、ラブホに籠る、こんな空間を可能なものとしてぽっと成り立たしめる「東京」と云う街そのものを舞台上に引きずりだそうとする試みなのかも知れない。登場人物たちの名前が戦後歴代の東京都知事のそれと同じであると云うことは、指摘するまでもないだろう。
  • これだけ意識的でカッティング・エッジな舞台を見たのは、久しぶり。座っていた場所が悪かったのか、お尻が痛くなった。
  • 絲山秋子『袋小路の男』を読み終える。現代日本の小説を読むと云うことから遥か遠く離れて、このごろはすっかり、些かの痛痒も感じなくなっている身であるが、このひとのものはこれからも読んでみようかと思える作家だった。目が冴えていて、言葉の選びかたや布置のあんばいが、かなり巧い。