上野品川水道橋横浜渋谷

  • 四時過ぎに起きて準備をして新幹線で東京に。九時過ぎには上野まで出て(駅で、上野の森美術館で「レオナール・フジタ展」をやっていることを知るが、年明けまでやっているのと、カネがないので諦める。しかしたぶん、戦争画の展示があれば行ったけれど)、国立西洋美術館で「ヴィルヘルム・ハンマースホイ 静かなる詩情」展*1。私が最初に、この画家のことを知ったときは、ハメルショイの表記だったが、まさかこれだけの規模の展覧会が日本で見られるとは。
  • 弟が先月行ったときはガラガラだったと聞いていたが、MR君の云っていた通りのNHK新日曜美術館』効果か、開館前、小さな行列ができていた。とは云え、充分にゆったりと見られる程度だったので、助かる。とても素晴らしい展覧会だった。
  • 「読書する女性、ストランゲーゼ30番地」では、横を向いた女の相貌だけでなく、肖像画らしい、壁に掛けられた絵画の画面も、殆どクシャクシャと塗りつぶされていて、その表情を窺い知ることはできない。まるで、黒沢清の『回路』のようだ。
  • 「ピアノを弾く女性のいる室内、ストランゲーゼ30番」*2では、こちらに背を向けて、纏めた頭髪と、黒い服の襟首の間に、ぼんやりと青白い肌だけをみせて、少し俯き加減にピアノの前に坐っている女性の頭部が、そのまま前のめりになり、やはり青っぽく塗られた壁のなかにめり込み、没するまで、あと少し。その画面の手前を占める、真っすぐな折り皺の入った白いクロスが掛けられた、テーブルの上の二枚の皿とバターの塊のほうが、よっぽど活き活きとした生気に溢れている。
  • 後ろ向きではなく正面から、絵のなかで描かれる画家の妻の肌は、1890年のひんやりとして青白い、しかしピンクのつやを含んだ色(「イーダ・イルスデスの肖像、のちの画家の妻」)から、やがて1907年には、殆ど不気味な、もう決して人間のそれではない、ちょうど『スターウォーズ』のヨーダのような緑色に変わってしまう(「イーダ・ハンマースホイの肖像」)。
  • ところが、「パンチボウルのある室内」や「ソファ」などの、人間の姿がない室内の絵では、しかし人間がいないと云うことが、人間なるものを濃密に感じさせる。つまり、ハンマースホイの絵画は、人間を掻き消すことでしか人間を描くことができなくなった絵画なのであり、それはちょうど、同時代に於ける広義の象徴主義絵画のことでもある。私は、人間なるものに対して殆どすっかり諦めているのだが、何かそれを放棄してしまうことには躊躇いがあり、ぎりぎりのところで踏み止まっている、そういう時代の絵が好きだ。例えば、ベルギーでたまたま大きな回顧展をみることができた、レオン・スピリアールトのような。
  • 何度も展示室を行ったり来たりして、気に入った絵を眺めてから、MR君に頼まれていたのを含め二冊の図録を買ってから、「常設展」に。展示空間のあちこちから延びている階段のスタイルが素晴らしかったのだが、さっきまで眺めていたハンマースホイのそれとは違って、14世紀から19世紀の絵画の画面のなかには堂々と人間たちが溢れかえっていて(例えば、マリー=ガブリエル・カペのむちむちぷりぷりぷりんなぴちぴちした肌が痛いほどまぶしい「自画像」*3など)、何だかとても可笑しかった。ロダンの塑像も人間が消えかけている美術だが、しかし、やっぱり大したものだ。
  • 昼前に美術館を出て、駅前の、公園脇の坂道をおりて西郷口前の「上野古書のまち」に。坂道を下りている途中、写真でみた草森紳一とそっくりの爺さんとすれ違い、あ!と振り返り立ち止まるが、もう草森紳一は鬼籍に入ったのだった。
  • 品川に出る。京品ホテル前で署名。そのままコンビニで菓子パンを買って腹を膨らませ、いちょう並木を眺めながら原美術館へ初めて行き、「米田知子展 終わりは始まり」展*4をみる。
  • 連作「シーン」も良かったけれど(キャプションを読んだあと、それがサイパン島の或る小道を撮ったものだったのが判った写真の前で、小さく「あっ!」と叫んでしまった)、特に、小さな展示室の壁面のぐるりに掛けられ、その部屋のなかに足を踏み入れたものを包囲する「パラレル・ライフ ゾルゲを中心とする国際諜報団密会場所」と題された連作が、とても素晴らしかった。思わず、息を呑んだ。W・G・ゼーバルトの小説を思いだす。
  • ところで、この美術館の常設になっている、ジャン=ピエール・レイノーの「ゼロの空間」と題された作品そのものはつまらないが、ちょうどひとりが通れるくらいの幅の階段を昇ってたどり着くその展示室を出てすぐの、さっき昇ってきた階段と、手摺りの曲線、それらを含む細長い空間を眼下に見おろすのが、とても美しいのである。
  • 喫茶室を通り、中庭に出て、少し日なたぼっこをしてから(携帯を失くしそうになる)、図録を買い、M大へ。
  • 先に着いていたのはoui嬢とN氏、仕事疲れか、鞄を枕にソファに横臥している。しばらくするとpayumu君もやってきて、眉毛がなくなって大島渚の『儀式』に出てくる女たちみたいになっているT君、M編集長、そして、パリ、リスボンのおしゃれ新婚旅行から帰ってきたおしゃれ番長S君などが続々集まってくる。テーブルの上にどしりと乗った、payumu君の手帖が、彼の2008年を凝縮圧縮貼付折込切貼貼混して、その背は既にぱっきりと割れて、しかしセロテープでぐいと繋ぎなおされ、如何なる作為や狙いもないまま、ものすごい吸引力の宇宙になっていて、驚愕。その「ブツ」としての圧倒感に、まったく、惚れ惚れする。
  • とは云え、私たちはpayumu君の手帖を鑑賞するために集まったわけではなく、『アラザル』第2号の発行の打ち合わせなのだった。『アラザレ』を作ったことで見えてきたものも多々あり、愈々、やりますヨ。