- ウチの家には、猫の額と云う言葉がまさにぴったりな、隣家との間の低い塀に面して細長い小さな庭がある。居間のガラス戸を開けて、網戸にしておくと、「しま」が音もなくやってきて、網戸とカーテンの間に入り込んで、じっと庭を眺めている。正確には、外から挿してくる光線や、吹き付けてくる風に身を晒している、のだろうけれど。
- 「しま」の後ろに寝転んで、この頃、好きなようにちんたらと読み進めていた、やっぱりところどころで印象的に猫が配されている、村上春樹の『1Q84』をようやく読み終える。ながい小説を読み終えて、ふかぶかとした満足感と余韻が、心地よい。
- 読みながら(特に上巻では)、大江健三郎の『宙返り』と云う小説のことがちらちらと思い出されてしかたなく、それはどちらも過激な宗教団体の「転回」の話が絡んでくるから、と云うよりも、作者自身が、その作品をみずからの作家としてのスタイルの「転回」、謂わば「第二の処女作」とすることを目論んで書いていると云うところで共通しているから、なのだ。私は大江のそれは、『宙返り』の時点では決して成功しなかったと思っているが、村上春樹は『1Q84』に於いて、その企てをかなり巧く成し遂げたのではないかと思う。もちろんその成功は、彼の文体によって達成されたのである。
- そして、あらゆる小説には文体しかなく、『1Q84』のなかでは、文体のことがしきりに語られ、それは云うまでもなく、ただしいことなのである。文体と云うのは、じふんで好き勝手にマニピュレイトできるものなどではなく、ひたすら耳を澄まし、手を動かし、耳を澄ませる……ことの繰り返しから立ち現われてくるものに、ほかならないからだ。だから文体とは、結果ではなく常に経過である。文体とは、ひとが生きてあることである。
- 村上春樹に就いては、私は決してよい読者ではないから(読んでいないものも少なくない)、えらそうなことは云えないのだけれども。
- 「しま」がすたすたと家のなかを歩き回ったり、その姿勢からいきなり、どだん、と床の上に転がるさまを眺めながら、ラルス・フォークトの弾くシューベルトの最後のピアノ・ソナタを聴く。読み終えた『1Q84』を柚子の枕の上に置いて、夕方からアルバイト。
- ふと気になって、真夜中、一階の廊下の本棚から大江健三郎の『宙返り』の上巻をひっぱりだして、最初の頁をめくると、まるで記憶していなかったが、このやはり長い小説は、「小さな人間が、やって来た。」と云う一文から始まっていて、ギョッとする。現役の日本の小説家で、大江の模索や試みを、いちばん真剣に受けとめているのは、やはり村上春樹なのだと思う。