• きのうまでの曇り空が嘘のように、色見本のプリントを貼り付けたような真青な空が窓からみえて、朝は起きる。「しま」とニャアニャア喚きあって、窓を開けて網戸にする。涼しい風が入ってくる。
  • シモーネ・ヤングの振る《ヴァルキューレ》の第一幕を聴いている。徹底して「盛り上げない」のが面白い。白っぽく、脱臼されたワーグナー(それでもワーグナーなのであるけれども)。
  • 昼過ぎ、階段の下へ「しま」がやってきて、にぃにぃ啼いて私を呼ぶ。降りてゆくと彼女のご飯皿が空っぽだった。
  • 林道郎の『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない』の「サイ・トゥオンブリ」の巻を読む。

十九世紀の美術教育の中では、(…)画家たるもののもっとも大事な技術は、色彩や陰影や様々なテクニックを最終的な表現の審級において制御しまとめあげる線の技術(…)。この線の制御力というのは、(…)合理的に空間を腑分けし、構成する力です。(…)世界を分析し、構成し、意味づける力(英語におけるarticulation)を代表するのが線。色彩はそれに対して二次的な存在であり続けます。というよりも、色彩独自の表現という考えかたそのものが存在せず、色彩の表現力を生かすのも殺すのも、結局は線によるその制御なのだという考え方です。ある意味でこれは、弁論における論理とレトリックの関係に近く、表現の根幹をなすのが論理的な骨格で、レトリックはそれをいかに効果的に伝えるかを左右する表面上の装いだという感覚が、そのまま線と色彩の関係に呼応しているわけです。(…)二十世紀のフランス思想における「盲目性」の思考の系譜は、この、画面上のすべての要素を一義的に決定しようとする線の理性=権力によって抑圧されているもの、そこから締め出されている可能性をどうやって掬いあげるか、あるいはその未知の闇への通路をどうやって開いていくかということを問題にしてきたと言っていい。