• インタヴュのまとめの遅遅たる歩みのせいで、約束していた花見をドタキャンする朝。洗濯物を干して、昼にカレーを食べた以外はずっと机の前に坐っている。ときどき「しま」が膝の上にやってくる。
  • 夕方、病院に行き、帰りに隣町まで出て、「しま」のごはんを買い求めて帰宅。再びインタビュまとめの続き。
  • 古本屋の値つけで、ネットを参考にするのが悪いと云っているわけではない。数多ある商売のなかから古本屋を選び、店まで構えて商売している考えがちゃんとあってそうしているんなら、他人のやることにごちゃごちゃ云うこともないだろう。値段と棚の並びに不満があれば、こちらも行かないだけなのだから。しかし、値つけというのは商売の根本だろう。それをネットに委ねるというとき、或る土地の一角を占める店舗というのはどうなるのか。この店で買うときは、ネット価格の送料以下(または込みでとんとん。amazonマーケットプレイスを考えるなら250円あたり)の安い本か、送料込み価格よりさらに安い本のどちらか。そうでなければ、この古本屋の棚並びのなかでこそ買おうと刺激されるときか、此処で買うことでこの店が街の風景に残り続けてゆくためのささやかな一助となってほしいと思うときぐらいだろう。しかしそもそも、わざわざ此処に残ってほしいというふうな愛着を覚える店とは、まず、やはり棚並びと価格がその店なりの価値観の反映で以て、さらにそれがその店のある土地の暮らしと絶妙に吊り合っている店のことではないのか?
  • 映画館やら美術館で生き残り策として進行している、映画や作品を集まるためのきっかけにしたお祭り会場化という発想が出てくること自体は、ふつうによく判る。その祭の司祭となることで生き残ろうとしている評論家たちがいるだろうこともよく判る。みんな何とかして食ってゆきたいし、食ってゆかねばならぬのである。しかし、これをどんどん進めると、祭ができてそれが盛況だったら、何のかんのと美辞麗句を貼り付けることができさえすれば、キュレーションが成り立つなら、作品は何だっていいじゃないかとならないか? そうならないために、祭の参加者をそのつど啓蒙し、藝術を享受する力を底上げしてゆこうというのだろうし、そもそもこれまでだって大きく捉えるなら、そうしてやってきたじゃないかと反論があるだろう。しかし、祭だワッショイ!の果てに藝術や文化の復興はあるのか? とてもそう暢気に信じきることはできない。