- 柚子と待ち合わせてミント神戸でスティーヴン・ソダーバーグの『サイド・エフェクト』をレイトでみる。実に恬淡と、意図があろうとなかろうと、人間もまた畢竟、虫であるということを描いて揺ぎない。その「虫」たちの暮らす空間を描くとき、ソダーバーグは実にしばしば、彼らと外界の間に、雨滴で濡れたガラス窓をおく*1。それは『セックスと嘘とビデオテープ』のときもそうだったし、私の大好きな『ソラリス』もそうだった。
- 柚子と会う前に立ち寄った、よく覗きに行く古本屋のおばさんから、「行ってきたの?」と問われる。元町の海文堂書店のことだった。そういえばきょうで店じまいだった。朝、ネットでそのことを報じるえらく感傷的な記事を読んだのを思い出す。おばさんは、「来るひと来るひと、みんな行ってきたって云ってたもんだから」、と。「こちらの閉店時間までに飛び込むので頭がいっぱいで、忘れてましたよ」と答える。
- 海文堂書店は、柚子と結婚する前、彼女の職場がそこから近かったので、よく待ち合わせに使った。だから、なくなるのは、ちょっと残念である。
- でも、必ず夜七時には閉店してしまう海文堂に、この店はどんな客を迎えたいと思っているんだろうと、疑問を抱いたのは一度や二度ではない。六時五十分あたりから、さあ閉めるぞという気配が店の四隅からざわざわしてくる。無論、さっさと仕事なんて終らせて帰りたいのは判るし、それは当然だ。神戸は他所に比べると店が閉まるのが早い。しかし、私たちは私たちの店を、棚を、本屋という生業を愛していますから、というようなメディアでの海文堂書店の紹介のされ方と、あの閉店前の前のめりの「追い出し」は、どうにもぴったりと来ないのだった。
- 朝になってネットの新聞記事をみると、海文堂の閉店時の模様が、とても甘ったるい感傷的な筆致で活写されていて、閉店後も店の前には数百人が集まり、店長が、ネットの本屋は便利だけど、町の本屋をもっと使ってあげてくださいと挨拶した、というようなことが書いてある。こんなことを云われてこの数百人のひとたちは黙って拍手とかしていたんだろう。「ありがとう!」とか涙声で叫んだりしていたのだろう。
- 街の片隅の本屋だとか映画館が閉まるとき、みんながもっとあそこをちゃんと使っていたらなくならなかったんだと糾弾する静かな声がどっと溢れる。それは、そうなのだろう。だが、私は、あのチクチクとじぶんや他人を責めるやり口が嫌いだ。そんなことですっきりするより、どうしてあの場所をじぶんは使わなくなったのか、あの場所はどうして私に使われなくなったのか、を考えるほうが、ずっといい。