• ラストタンゴ・イン・パリ』でベルトルッチマーロン・ブランドは、マリア・シュナイダーに知らせずに、バターを用いた性交のシークェンスを撮り、彼女は深甚なダメージを負った。にもかかわらず、この映画の彼女は素晴らしい。芸術は残酷だ、という吐き気のするツイートをみた。それはベルトルッチマーロン・ブランドたちの残酷さや愚かさであり、芸術の残酷さではない。これを、芸術そのものに起因する残酷さであるかのようにずらすことで、彼らの愚劣を突きつめる面倒くささを負わず、「芸術映画」から滴る甘い汁だけを、道学者ふうの渋面で、思う存分、しゃぶり尽くすことができるようになる。貪欲な芸術の歯車に食いちぎられた哀れなミューズの悲劇を直視するためには、銀幕から眼が離せない、というわけだ。
  • そうではない。噛み締めなければならないのは、こんな下劣な撮り方でなければ、こんなに充実したシークェンスを撮ることはできないのか、と問うことであり、それは結局、技術のことだ。芸術の残酷さなど、まったくどうでもいい。あるいは、私たちの本当のことなど、映画には本当に映るのか、と問うことだ。それは映らないなら、映画の本当は私たちの本当とは別物であるのなら、シュナイダーへの暴力は、やはりまったく不必要だったということになるだろう。
  • 私は、この映画は、ベルトルッチやブランドたちの演出というものへの信頼の乏しさにもかかわらず、七〇年代ベルトルッチの傑作のひとつだと今も思っている。これからまた見ることもあるだろうし、シュナイダーの荒れ狂う四肢や、糞野郎のひとりだろうストラーロキャメラの捉えた壁の光を、そのたび美しいと思うだろう。だが、それは断じて、芸術の残酷さゆえの照り返しなどではない。彼らの技術のすばらしさゆえなのだ。