- クラカウアーの『大衆の装飾』を読んでいる。「写真」と題されたエッセイでは、「写真が可視化するのは、オリジナルについての認識ではなく、ある一瞬の空間的配置だからである。人間が写真のなかに登場するのではなく、その人間から差し引かれたものの総量が示されているのだ。写真は人間を模写することによって、人間を抹殺する」という。たとえば、「青年期の写真と後年の写真」が「統計報告のように隣り合って並んでいる。昔の姿から後の姿は想像もつかないし、後の姿から昔の姿を再構成することもできない」とき、「この光学的在庫一覧が、左右互いに補完し合って一体を成していることは、信用して受け入れることができよう。つまり人間の諸特徴は、その「歴史=物語」のなかにのみ保存されているのである」。このように「出来事の時間的継起のなかから意識が読み取る」のが「歴史=物語」である。つまり「写真は一つの無のまわりに断片を集める」のであり、そこに「私たちはどこにも含まれておらず」、「たとえ本人と写真が一致していても、その本人はそこに居合わせはしない」のだ。