• 多木浩二の『映像の歴史哲学』の抜書きの続き。多木は『写真論集成』をつまみ食いするまで、もっと教科書的な、微温的な書き手かと思い込んでいて、真面目に読んでこなかったのを、ちょっと反省している。

これはベンヤミンもそうなのですが、マルクス主義の洗礼を何らかのかたちで受けた人間というのは、政治を「美的」に捉えるということにたいする危険を強く感じます。ヴェルトフはソビエトの政治に反対の立場をとっていたわけではなく、むしろそのなかで生きて新しい社会をつくっていこうと思っていた人ですが、政治を「美的」に捉えようとはしなかった。「美的」ということを別の言い方でいえば、ナラティヴ(物語・叙述法)と言ってもいいのですが、ナラティヴに依存することはせずに映像をつくっていった。そして、それによって人々を、リーフェンシュタールのような無邪気な政治意識から開放して、現実に向かって覚醒させるような映像をつくっていった。だから私たちはヴェルトフの『カメラを持った男』を見るとさっぱりした気分になるのです。リーフェンシュタールの映画はさっぱりした気分にまったくなれない。むしろいろいろなものがゴチャゴチャと混乱して入っている。ヴェルトフの映画はゴダールの映画に似ています。ゴダールの映画は、なぜか見たあとに気持ちよさが残るのです。(…)「映画であること」というのは、映画的な美であることを解体するということかもしれません。

もはや何人たりとも逃れられない映像的日常にたいして、私たちは何らかの別の媒体をもち、それによって考えるという行為をしつづけなければなりません。その別の媒介というものは(…)思想や藝術です。(…)しかしそれをもし失ってしまうようなことがあれば、人類はどこかで滅びるでしょう。自分が考え、つくり出すことというのは、そういったきわめて重大なことを背負っているのです。(…)戦争に囲まれてしまった私たちは、藝術や映画や写真などを見ながら、言語化し、考えることがなにより大切なのです。作家自身がひょっとしたら気がついていないことまで含め、考えてしまえばいいのです。(…)戦争に私たちが投げ込まれていくときに、思想や藝術について考える能力を何とかして身につけることが、人類が滅びないための方法なのです。(…)私たちは考えはじめたときにはじめて希望をもちうるのです。(…)藝術文化としての「クンスト」と、日常生活の技としての「クンスト」の両方を守り抜けるかどうかが、この戦争化した世界のなかでなによりも大切なのです。