• 昨日の夜中にクロエ・ジャオの『ザ・ライダー』を見る。小さな音、ノイズにずっと取り囲まれて生きている男の生。馬の呼気とか金具のかちゃかちゃいう音、テレビの音、夜の虫の鳴き声、iPhoneのスピーカーから漏れるかさかさしたサウンド。冒頭15分ほど見て、寝る。帰ってから見ようと思っていたら、帰宅が夜中になり、配信は終わっていた。ネットフリックスは、じぶんのDVDコレクションをクラウドに預けてあるような気持ちだったが、そうではなくて、やはり映画館か貸ビデオ屋なのだ。しかも、貸ビデオ屋と違ってブツがないから、見逃したらDVDで買って追いかけるができない。面倒くさい話だ(『ザ・ライダー』はamazonプライムでレンタルできるそうだ。借りるだろうか)。

  • 梅田芸術劇場で《エリザベート》の25周年記念ガラコンサートを柚子たちと見に行く。春野寿美礼のどこまでも伸びる歌を聴いていると、ぞくぞくする。蘭乃はなの子供シシィや和央ようかの吃驚するほど自信満々の歌いっぷりや、大空ゆうひの実直な芝居や、とても生真面目な水夏希白羽ゆり彩吹真央のトリオを見ていると、熱心に宝塚を見ていたころを思い出して、とても懐かしくなってくる。
  • 終わって、お茶を呑みながらSさんが、舞台を見るときはオペラグラスをできるだけ使いたくないという。宝塚を見るようになってからすっかり私も使うようになったのだが、とても判る感覚だった。オペラグラスを覗き込んでいるとき、おなじ空間を共有して今舞台の上に立っている生身の俳優であるというよりもむしろ、映像になるからだ。

  • 夜によると、もう雨はだいたい止んでいるが、風が強くて冷たい。道に迫り出していた満開だった桜の花弁は昼間の雨ですっかり振り落とされて、黒い舗道の上や側溝の縁に分厚く積もっている。それは雨を含んでぶよぶよしているだろうと思うのだが、風に曝されて水は飛んでしまったらしく、踏み分けて進むと靴の下でさくさくと乾いた音を立てた。
  • ロヒンギャ危機』を少しと『ホロコーストと国家の略奪』を少し読む。ヤンゴンの第一医科大学学生連盟の発した、ロヒンギャへの虐殺のときに「目を瞑ったために、今日のような残酷な不当行為が行われ、その結果を被ることとなった」との声明をネットで読んで、ナチは東部での殺戮や蛮行を戦線の後退に伴って西でも行うようになったのを思い出す。
  • 庵野秀明にはどうせなら『シン・ラブ&ポップ』を撮ってほしい。NHKの『仕事の流儀』は、何より本棚にモザイクがかかっていたのが猛烈に萎えた。
  • ベルチャ四重奏団のブリテンのSQ3のCDを出してきて聴く。こんな不思議な始まり方をするのだったかと驚く。

  • 朝、部屋に積んである写真集の柱が崩れて、もう一度積んだら、一時間もしないうちにまた崩れた。
  • YouTubeに全曲がアップされているマリインスキー劇場の《影のない女》を流していたら、これまでゲルギエフの作る音楽で感心したことなどなかったのだが、第一幕の終わりのあまりの美しさにうたれたのがきっかけで、買いそびれていたオペラのBDやCDをあれこれ買ったり、買った記憶すらあやふやだったカンブルランの指揮する《モーゼとアロン》のCDを引っ張り出してきて、へッドホンで聴いている。カンブルランの《モーゼとアロン》はまるで《パルジファル》のようにふわふわと透明でとても好み。
  • まとめて買ったCDのうち、シェーンベルク弦楽四重奏曲第二番が入っていたので何となく取り寄せたリヒター・アンサンブルのCDは、奏者の吐息と弦の軋みの響きが面白くて、よく聴いている。もともと弱かったがどうしようもないくらい酒に弱くなったと思う。

  • ラストタンゴ・イン・パリ』でベルトルッチマーロン・ブランドは、マリア・シュナイダーに知らせずに、バターを用いた性交のシークェンスを撮り、彼女は深甚なダメージを負った。にもかかわらず、この映画の彼女は素晴らしい。芸術は残酷だ、という吐き気のするツイートをみた。それはベルトルッチマーロン・ブランドたちの残酷さや愚かさであり、芸術の残酷さではない。これを、芸術そのものに起因する残酷さであるかのようにずらすことで、彼らの愚劣を突きつめる面倒くささを負わず、「芸術映画」から滴る甘い汁だけを、道学者ふうの渋面で、思う存分、しゃぶり尽くすことができるようになる。貪欲な芸術の歯車に食いちぎられた哀れなミューズの悲劇を直視するためには、銀幕から眼が離せない、というわけだ。
  • そうではない。噛み締めなければならないのは、こんな下劣な撮り方でなければ、こんなに充実したシークェンスを撮ることはできないのか、と問うことであり、それは結局、技術のことだ。芸術の残酷さなど、まったくどうでもいい。あるいは、私たちの本当のことなど、映画には本当に映るのか、と問うことだ。それは映らないなら、映画の本当は私たちの本当とは別物であるのなら、シュナイダーへの暴力は、やはりまったく不必要だったということになるだろう。
  • 私は、この映画は、ベルトルッチやブランドたちの演出というものへの信頼の乏しさにもかかわらず、七〇年代ベルトルッチの傑作のひとつだと今も思っている。これからまた見ることもあるだろうし、シュナイダーの荒れ狂う四肢や、糞野郎のひとりだろうストラーロキャメラの捉えた壁の光を、そのたび美しいと思うだろう。だが、それは断じて、芸術の残酷さゆえの照り返しなどではない。彼らの技術のすばらしさゆえなのだ。

  • 「総ての黒人が暴動を良いと思っているわけではない」と書いているのをみて、当たり前だろうと思う。そんな当然のことを日々ずっと言われているようだから暴動は起きるんだろう。火事場泥棒なんか肌の色に関係なく牢屋にぶち込んだらいいと思う。しかし、その盗みの現場で警官が駆けつけて、警官らしい仕事をすることができないでいるのは、警官が、制服の権威を笠に着て、無法な殺人を犯したからだろう。そして、その人殺しのレイシストの警官は、大手メディアは極左に操られている、私が言っていること以外は全部出鱈目だと日がな一日ツイートしている、糞が頭にぱんぱんに詰まった大統領の支持者なのだという。世代の異なる黒人たちが街頭で激昂しながら議論している動画をみた。蜂起するしかないと語る四十代の男と、俺もその隊列に加わってきたが、別の方法を探らなきゃ俺たちが殺されるんだ、しかしそれが何なのかは判らないと語る三十代の男は十代の少年の肩を掴んで、このおっさんにも俺にも見つけられなかった方法を君は見つけてくれと訴える。彼の言葉はとてつもなく真摯だが、これをデモとか暴動とか良くないよねに読み替えるカポは掃いて棄てるほどいるだろう。

  • ベルリナー・アンサンブルのアーカイヴ公開で、ハイナー・ミュラーが演出した《アルトゥロ・ウイ》を見ていると、私が子供のころ、こういうものが格好いいと思っていた演劇の匂いがぷんぷんする。すっかり演劇から遠く離れてしまったが、コロナ禍のせいであちこちの劇場がウェブで過去の舞台を見られるようにしているので、そういうのをずっとつまみ食いしている。映画よりたくさん舞台(映像)を見ている。少しだけ演劇と和解できたような気持ちがある。應典院も昨日で劇場としての役割を終えたという。
  • 渡辺麻友が引退してしまったのは、やはりじわりと心が痛い。