• 昼からだらだらと新幹線に乗る。『アセンブリ』は荷物が重くなるので置いてきて、デイヴ・ハッチンソンの『ヨーロッパ・イン・オータム』を読む。副業・スパイに励むシェフが、レイザーワイヤーで仕切られた「マイ国家」の乱立する近未来のヨーロッパで繰り広げるビターなドタバタ。どこにでも行くけれど、どこにも出られない感じが大変好み。
  • 16時半から予約していたワコウ・ワークス・オブ・アートでのゲルハルト・リヒターのドローイング展に滑り込む。1950年代の作品も展示されていて、終末の浜辺のようなところを往く、小さな黒い人影がふたつ並んでいて、このダブルというテーマもまた、ずっとリヒターの作品にあるなと思う。ドローイングはここ数年の間に描き溜められたものばかりで、線の展開でも、やはり面と映り込みと翳りを立ち上がらせるのがリヒターだった。
  • 同じビルの中の開いているギャラリーを眺めて、コンビニで傘を買う。六本木から地下鉄で銀座に出てエルメスで田口和奈の《A Quiet Sun》展を見る。展示が上手だなと思う。フリーダの肖像を使った写真が良かった。
  • 銀座をぶらついて、地下の「ABCらーめん」に入って麻醤麺と半チャンを食べる。そのまま新橋まで歩いて山手線。御徒町の駅から少し歩いたところにあるホテルに着く。何も考えず、ドミトリタイプを除外して、風呂がついている都内のホテルを検索していちばん上に出てきたところを選んだ。

  • 仕事が終わってから柚子と灘駅で待ち合せて、駅の改札のモスバーガーで夕食。HAT神戸の109シネマズまでぶらぶら歩いて、バズ・ラーマンの『エルヴィス』を見る。トム・ハンクスの演じるパーカー大佐の走馬灯(『スタートレック』的な時間と距離の旅)という大枠があって、1930年代から1970年代までのエルヴィスを、ふたつのさまざまな場所(父と母、黒人と白人、売春宿と教会……)の間に置いて、その距離を動かすことによってエルヴィス像の見え方が変わるさま、変わらぬさまを繰り返してゆく。終わりにエルヴィス本人の最後のライヴの映像に切り替わり、映画全体の留め金のようになって締め括る。満足して帰る。

  • 仕事を終えて、シネリーブル神戸で柚子と待ち合せてポール・トーマス・アンダーソンの『リコリス・ピザ』を見る。私のPTAの映画に対する期待値が高すぎるのか、憔悴しきっている映画にしか見えなかった。素敵なシークェンスもあるのだが、それが映画全体のグルーヴに昂揚してゆかず、疲弊ばかりを感じる。
  • トラックがガス欠を起こしてしまうシークェンスがある。トラックは後ろ向きに坂道を降りてゆくのだが、これは走っているのではない、転がっているだけなのである。燃料が切れてしまっていて、自慢のエンジンは動かない。これが今のポール・トーマス・アンダーソンの映画なのではないか。
  • 1970年代の映画やカルチャーをシミュレーションしている映画なのだと言う人もいる。そんなことは判っていて、問題は、なぜそれをPTAはやっているのか、そうすることで映画を走らせることができているか、なのである。前のように走ることができない、PTAの焦燥ばかりが伝わってくる。長いワンショットは、カットを割らない強さの表れではなく、カットを割れない弱さなのではないか。私もすっかり疲れて帰宅する。

  • シネマ神戸でシャンタル・アケルマンの『囚われの女』を見る。この映画でシモンと呼ばれるプルーストの「私」は、高橋康也の論じるベケットのようなプルーストだ。シモンのふるまいは「悲愴であるが、同時に滑稽でもあ」って「すなわち道化」であり、シモンは自分を、どんなものに「接しても何も思い出すことができぬほどの健忘症である」と語る。「ベケットにおける恩寵の喪失はプルーストとは比較にならぬほど悪化している」と高橋は書くが、アケルマンのプルーストでは「恩寵の喪失」はベケットのそれと比肩するほど「悪化」させられている。サビーヌ・ランスランのカメラもとてもいい。この映画では《コジ・ファン・トゥッテ》が歌われるのだが、アケルマンのモーツァルトの使い方は本当に変わっている。
  • そのまま続けてアケルマンの『ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス湖畔通り23番地』を見る。ずっと見たかったが自分には機会のなかった映画の一本。ここには確かに抑圧と暴力と性欲の街であるブリュッセルがしっかりと映っていると思った。
  • グザヴィエ・ロトとレ・シエクルによるドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》を聴いている。とてもいい。ようやくこのオペラの面白さが判った気がする。

  • シネマ神戸でシャンタル・アケルマンの『オルメイヤーの阿房宮』を見る。レイモンド・フロモンの撮影を含め、何もかも素晴らしい。《トリスタン》の前奏曲が流れるなか鬱蒼としなだれかかる密林の河を遡る船の甲板のへりで、煙草をくゆらす褐色の肌のイゾルデ。二隻の船が行き交う息の長いショット、男の干からびた顔とその上をちらちらする陽光や涙の筋の動きを見つめる静かで緊張したショット、夜の街を歩く少女を横から追うシークェンス、本当にいい。家から逃げる映画であり、逃げるために一度帰ってくる映画であり、家に取り残される映画でもある。
  • 続いてシャンタル・アケルマンの『アンナの出会い』も見る。これは出張先から家に帰ってくる映画。ヘルムート・グリームを久しぶりに見てちょっと嬉しくなる。女の愛人が密会先で体調を崩す。ホテルを出て、タクシーに乗って、薬局に行って薬を買うまでを追いかける。なぜ摘まんでしまわないのだろうかと思うが、それはその往路での、車中の女の顔の上に滲み出す涙を捉えるためである。それが抽出されるまでには、時間がかかる。その時間をアケルマンは捉えようとする。
  • 商店街を湊川に遡って、上崎書店に寄ってから帰路。

  • シネマ神戸でシャンタル・アケルマンの『私、あなた、彼、彼女』を見る。ようやく女が部屋を出た道路脇のショットの、息をつける拡がりのありがたさ(しかしそこもまた新たな密室かも知れないという不穏さが画面の隅に潜んでいる)。部屋の中でふたりの女がまぐわうシークェンスはクレイ・アニメのような、塑像を練り上げてゆくようなレッスルの美しさ。