本を聞く、肉体を読む

  • 岩井克己『天皇家の宿題』を読み終える。女系天皇女性天皇の違いをちゃんと説明できない私みたいな日本人は必読。鰯の頭もなんとやらの絶対的な崇敬でも、改革の名を借りたヒステリックな廃絶論でもなく、その歴史に敬意を表しつつ天皇制を考えてみたいと思っているが、何から手を出してよいかさっぱり判らない私のようなひとには、最良の入門書となっている。アカイ、アカイ、アサヒから出てるから……と敬遠するのは勿体ない。寧ろ朝日新聞社とは、戦前も戦後も、皇室を最も必要としているメディアじゃないか?
  • 仕事でワレリー・ベリャコーヴィチの演出する兵庫県立ピッコロ劇団の『ハムレット*1の舞台稽古を見学する。ベリャコーヴィチの演出はロシア語だが、ぴたっと通訳の女性が横に付いて役者たちに逐語訳してゆく。その女性のシンクロぶりが実に素晴らしい。ベリャコーヴィチを見るのは初めてだが、演出家だけでなく役者としても活躍すると云う彼の芝居の付け方は、とにかく、じぶんでどんどんやってみせる。その表情づけの濃淡は鮮烈で、彼ひとりが動くだけで稽古場の空気が、グワッと変わる。それは巨大で不吉な、総てを更地にしてゆく明るい竜巻のようだ。彼の言葉は判らないが、その豪快な四肢の動きに目を奪われ、リズミカルな分厚い声に耳を奪われる。
  • 本格的な芝居の稽古を見学するのは初めてだが、演出家にダメを出された後の役者の芝居が、素人目にも鮮やかに変化するのには些か驚いた。本当に、あからさまなふうで良くなるのだ。
  • 内田樹下流志向』を読み始める。冒頭の数十頁を読んだだけで、目から鱗がボロボロ。これは内田の最高傑作ではないか? ちょっと気になった箇所を、孫引きも含め、ずらずらと書き抜いてみる。

学校が「近代」を教えようとして「生活主体」や「労働主体」としての自立の意味を説く前に、すでに子どもたちは立派な「消費主体」としての自己を確立している。すでに経済的な主体であるのに、学校へ入って教育の「客体」にされることは、子どもたちにまったく不本意なことであろう。(諏訪哲二『オレ様化する子どもたち』)
子どもたちは「他人のもたらす不快に耐えること」が家庭内通貨として機能するということを人生のきわめて早い時期に習得している。現代日本の家庭が貨幣の代わりに流通させているもの、そして子どもたちが生涯の最初に貨幣として認知するのは、他人が存在するという不快に耐えることなのです。
(……)父や母がそうしているように、十分に不機嫌でありうるということによって、子どもたちは不快に耐えて、家産の形成に与っていることを誇示しているのです。
家族の中で「誰がもっとも家産の形成に貢献しているか」は「誰がもっとも不機嫌であるか」に基づいて測定される。
これが現代日本家庭の基本ルールです。
不快のカードを家庭内でいちばんたくさん切れるメンバーが、家庭内におけるリソースの配分や、決定に際しての発言権において優位に立つことができる。ですから、一家全員が「この家庭のメンバーであることから最大の不快、最大の不利益をこうむっているのは誰か?」をめぐる覇権争奪戦に熱中することになります。(……)
このゲームのルールは、先に文句を言ったもの勝ちですから、このゲームで幼児期から鍛えられてきた子どもは、どんな場合でも、誰よりもはやく被害者のポジションを先取する能力に長けてゆきます。人間、生きている限り、さまざまな不快なできごとに遭遇しますが、そのすべてにおいて、「私は不快に耐えている人間」であり、あなたは「私を不快にさせている人間である」という被害-加害のスキームを瞬時に作り上げようとする。

  • 私の知人に、媚態と威嚇のふたつの言語表現の態度しか持たない女性がいる。彼女が体現しているものは、単純に私の個人的な不快感に抵触してくると云うようなものではなく、時代の病理だったと云うわけだ。