どっぷりと。

  • 寒いので、外套さえ着込んで家のなかにいる。ロバート・アルドリッチの『キッスで殺せ』をDVDで再び観る。どのカットも素晴らしい。ずっと聴きたかったフィリップ・マヌリのオペラ『60度線』が届いたので、さっそく聴く。
  • 現代音楽からのオペラへのアプローチの一例。マヌリらしい電子的な音響も随所で用いられるが、概ね、まるでアルバン・ベルクを想い起こさせるような、しっとりとしながらも冷えた響きである。私は大変好きなオペラであった。
  • ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』と同じくシェーンベルクの『モーゼとアロン』は沈黙を選んで終わり、プッチーニの『トゥーランドット』も未完で、20世紀のヴェルディになれただろうとマリス・ヤンソンスが述べたショスタコーヴィチはたった二作しか完成させることができないで、既にオペラは、もう、死んでいる。それを弔ったのがラッヘンマンの『マッチ売りの少女』であるとするなら、マヌリはかのヴィクター・フランケンシュタインよろしく、オペラなるものの亡骸へ再び稲妻の電気ショックを与えて蘇生させようとするかのようである。もちろん、その実験の結果、不気味で奇怪な怪物が誕生するかも知れない。しかしマヌリには、そう云う圧倒的なモンスターこそ、次々と生み出して欲しいと思う。
  • ロバート・カーセン演出の『ばらの騎士』のDVDを観る。とても素晴らしい傑作だった! 
  • アドルノは『ばらの騎士』を評して、「この作品が作られてからというもの、銀行家の息子たちは、不幸な結婚をした貴族の人妻とベッドをともにする時、自分がさも高貴な家柄の若い殿方であるかのような気分に浸ることが許されるようになったのである」とブーイングをカマしたが、カーセンの演出は、まさにその時代、ちょうどこのオペラが創作され、大喝采を博したころに設定する。つまりそれは、ハプスブルクの帝国が、ぐずぐずになりながらも朽ちることなくまだ威容を誇っていたころであり、すぐ扉の向こうまで、ヨーロッパのみならずその植民地までも巻き込んで、初めて地球規模で戦われ、総力戦と塹壕戦が恐るべき大量死を招く、第一次大戦がやってきている時代である。
  • ザルツブルクの祝祭大劇場の巨大な空間を埋め尽くして、第一幕では、元帥夫人の寝室が(その壁の高いところには、軍服姿の元帥の肖像画が掲げられている)、第二幕では、戦争画が壁面いっぱいに描かれている武器商人ファニナルの豪壮な広間、そして第三幕では、ぬらぬらと真っ赤な内装の娼館がしつらえられている。カーセンの演出は、基本的に前衛に奔り過ぎないで、云うならば高級ファッションブランドの広告写真のような、洗練されたブルジョワの美学で舞台を彩るため、それらの美術や照明は、とても美しい。ゴージャスでエロティックなこれらを眺めているだけでも、ずいぶん愉しい。
  • しかし、エンディングでは度肝を抜かれた。第一幕で、その肖像画が、間男と不貞の妻を見下ろしていた、高い壁の上の元帥(クロアチアの森で狩猟に耽っているはずの彼が舞台に登場することは、台本上ではない。しかし、ヨーロッパ史に於いて、クロアチアとは何と云う困難な場所であることか!)が、実際に姿を現わしてしまう。初々しい愛のなかに没入して、互いの胸に顔をうずめているオクタヴィアンとマリーは、彼らの枕辺のすぐ上に、どんな怪物が立ち尽くしているのか、まるで気づいていない。第二幕で銀の薔薇を持って現われるオクタヴィアンが、実際の白馬に跨って(!)やってくることと、ファニナル邸の壁画の中央に描かれている情景を重ねれば、妻を娶ったばかりのロフラーノ伯爵を、どのような運命が戦場で待ち受けているかは、おのずと理解できよう。そして、元帥夫人が使役している黒人の少年だって、ハンカチを拾って終わり、などで終わることができるわけがない。植民地兵もまた揃いの軍服に詰め込まれて、小銃を肩に欧州の戦場へと送り込まれたのが第一次大戦なのである。
  • そう、この禍禍しいエンディングは、ムージルの『特性のない男』やトーマス・マンの『魔の山』と響きあう。カーセンは『ばらの騎士』を、ラヴェルの「ラ・ヴァルス」や、ストラヴィンスキーの「春の祭典」のように、またはタイタニック号の沈没の如く演出してみせたわけである。カーセンは、単なるハイセンスなゲイっぽい舞台を作る男ではない。たぶん彼は、圧倒的な暴力なるものに、取り憑かれている。
  • 指揮のセミヨン・ビシュコフは、私の好みから云えば、オーケストラを鳴らし過ぎる。だが、歌手たちは皆とても良い。特に、シュトロハイムばりの片眼鏡を掛けてオックス男爵を演じるフランツ・ハヴラータが、もう立っているだけでも素晴らしかった。ちょっとファニー・アルダン似のアドリアンヌ・ピエチョンカの元帥夫人は、枯れ過ぎていないふうなのが、この演出にはぴたりと嵌っていたと思う。
  • F・W・ムルナウの『最後の人』を観る。カール・フロイントの撮影による奔放な画面と、その編集のリズムが圧倒的。附録映像のメイキングも良く出来ている。しかし、吃驚するほど見事なセットである。