サシャ・ヴァルツ&ゲスツを観る

  • びわ湖ホールで、サシャ・ヴァルツ&ゲスツ*1の『ケルパー(身体)』*2を観る。びわ湖ホールは初めて。
  • クロノロジィと医療技術のテクノロジィに切り刻まれ、管理され、パッケージングされている私たちの身体、狂気に囚われて叫ぶ身体、食物を摂取しては液体を垂れ流す身体、それを処理する産業に従事する身体、言葉を書き記す身体など、現在、私たちの身体の云うモノが置かれているさまざまな状況を見せてゆく。
  • ダンサーたちの身体運用の巧みさのなかでも特に、一瞬で死体になってしまうのに驚く。重くて嵩張る、大半が液体で詰まった、ごろりとした肉の塊に転じてみせるのは、動くものとしての身体を熟知しているからに他なるまい。
  • 舞台の中央に立てられた巨大な黒板が、ダンサーが歩いている後ろを襲うように、まるでバスター・キートンの『蒸気船』ばりにばったり倒れると、其処は斜めに傾いだ四角い舞台となり、男女がぴったりと並びその四辺を歩むだけの、ディコンストラクティヴなアルゼンチン・タンゴが踊られるのが、やけに感動的だった。
  • 或いは、ダンサーたち数人によって、壁にチョークで、ダ・ヴィンチの「ウィトルウィウス的人体図」が殴り書きされる。それらの線は儚く、不ぞろいで、ダ・ヴィンチの人体図やル・コルビュジエの「モデュロール」のような理想化された身体図には成り得ない。しかし、私たちの身体とは、そういうものなのではないか。理想化や規格化を最後まで阻むものが、このブヨブヨとして、捉えどころのない身体なのではないか。
  • 最後に、ダンサーたちが舞台の隅を、まるで舗道の敷石を外してゆくかのように剥がし始める。ドブ板を外した側溝のようになった窪みに、ダンサーたちが横たわる。やがてドブのなかで彼や彼女らは甦ると、笑い、争い、泣き、叫び、抱き合う。
  • 結局、私たちはずっと、そればかり繰り返してきたのだった。病気や怪我や体力の衰え、肥満(笑)など、欠如体として意識されることばかりの多い、厄介な身体なるものを舞台にして。
  • それらと同時に、舞台の中央では、鏡のようなガラス板を隔てて、ふたりのダンサーが身体を反射し合っている。私たちは身体を、一望することができない。それは他者の身体だけではなく、例えば私は私の背中さえ、じぶんの目で見ることはできない。私的な所有の始原的な出発点であったはずの身体。だが既に其処には、他者へと繋がらざるを得ない扉が、仄かに明るく、ぽっかりと開かれている。
  • なかなか悪くない舞台だったので、終演後の有料トークショウ(司会は乗越たかお氏)にも参加するが、些か段取りが悪く、音楽を担当したハンス・ペーター・クーンまでいたのに、質疑応答は一件のみでがっかり。ウェブで少なくない情報が無料で楽に手に入る現代だからこそ、その場所でしか訊けないことの意義が大きいのではないか? 
  • 成るほど、トークショウの完成度としてはノイズが多くなるのかも知れない。だが、それも含めて、作り手と観客が顔を突き合わせて遣り取りすることの、ライヴならでは面白さや意味が発生してくるのではないか? しかも、ずばり「身体」と題されたダンスの公演のあとだよ!?
  • ちなみに私は、今後も手掛けてゆく予定だと云うオペラの演出に就いて聞きたかったのだけれど、残念。サシャ・ヴァルツはピナ・バウシュなどのドイツの前衛的な舞踏の影響下でダンスを始めたのではなく、寧ろ現代音楽や演劇からの関心から出発し、彼女はもともと現代音楽の作曲家になるつもりだったらしいのだが、ちらっと映像で紹介されたパーゼルの『ディドーとエネアス』*3が面白そうだったので。時間が押したのも判るが、それならそれで、でかいホールなんだから場所を移すとかできなかったのだろうか? 
  • 『ケルパー』に続く『S』と『noBody』の関西での公演を、強く希望する。
  • カンパニーの真っ赤なTシャツを、土産に買った。
  • 職場の飲み会を終えた柚子と待ち合わせて帰宅。
  • 昼、弟から電話がある。お互い頑張ろう。