『太陽にホエール』をみる

  • 朝六時までポチポチと原稿に手を入れ、それから少し眠る。眠くて眠くてしかたがないが、頭の上で「しま」がミャアミャア鳴いて昼前に起されて、バタバタと準備をして、独り日本橋まで。久しぶりの「in→dependent theatre 1st」で、「はちきれることのないブラウスの会」*1の第一回公演『太陽にホエール』をみにゆく。
  • 客席には『ルルドの森』の主演男優H氏が坐っていて、先日の舞台のこと、彼の「アジト」のことなどを開演前に話す。今度シャンハイからシンセンに行くらしく、磯崎新が見られていいなぁ、と。H氏はコールハースがお好きらしい。
  • さて、お芝居のほうは、タイトルにある「太陽」とは七曲署のほうではなくて、『太陽を盗んだ男』のほうのそれだった。ただし此処には、菅原文太(的な存在)は、決して出てこない。寧ろ、そのような強烈な「父」を担い得る「男」が登場するのならば、この演劇は成立し得ない。なぜならこの芝居は、四人の20代後半〜の女の子たちが「合コン」しよう!と悶絶するうち、本当に「世界の終わり」がやってきて、そのときはやっぱ男と一緒にいたいとか何とかカマしてましたけど、やっぱり女同士できゃあきゃあ(または、ギヤャアぁぁぁアぁあアアアぁ!!!!)やってるほうが愉しいんじゃないだろうか?……と云う話だからだ。この演劇のキャッチコピーは、「我々は処女ではない。童貞である」だったが、「童貞」と云うのを、一発ヤっちゃっても、うじうじと解決しないひとのことだと捉えるなら、彼女たちはまさに「女童貞」である。いや、若き畏友安東三*2の指摘ならばそもそも「女子とはすなわち童貞」なのであるが。だから或いは、この演劇そのものを、女優四人によるアンサンブル芝居を偽装した、20代後半〜の男の「童貞」(云うまでもなく挿入経験の有無ではなく)のひとり語りであると捉えることもできるだろう。
  • さて、この演劇のなかでは、すごく手間がかかっているのだけれど、不発弾もひどく多いコント(ところで、まったく大きなお世話だが、何で小劇場のお客さんには、ゲラが多いのだろう。『太鼓の達人』じゃないんだから、舞台の上で、「(笑)」と示されている箇所が出てくるたびに、その全部を拾って客席から大声で笑ってやることが、演劇に於ける両者のキャッチボールなのだと思っておられるとしたら、それは随分と、舞台のがわをナメた笑いなのだと思うのだが……)が、短い間奏曲のように何度か挿入される。最初は正直、「これ、要るのかねぇ!?」と思いながらみていたのだけれど、やがて気づいた。謂わばこのショート・コントのパートが、この舞台の主題なるものを、実はちょっとあからさまなぐらいに、明示することになっているのだ、と。
  • つまり、さっきじぶんで書いたのをコピペしておくと、「すごく手間がかかっているのだけれど、不発弾もひどく多い」のは、舞台の上で織りあげられた彼女たち四人の生だけでなく、客席に坐っている私たちの生も同じなのである。しかし、だから彼女たち、私たちの生には大した価値がない、などと云うのではない。いや、別に大した価値がないと云ってしまってもいいのだけれど、なぜならその価値のなさは、私たちがこの世で生きている限り、誰であっても逃れられない価値のなさであるからだ。小西康陽が「エヴァー・グリーンなものを作ることを断念する」ことから始めた野宮真貴を擁する第三期ピチカート・ファイヴを、つまり「待ちあわせのレストランはもう潰れてなかった」り、「ハッピーもラッキーも全然なくても」と、暗い歌をキラキラとゴージャスに歌いまくるポップ・ユニットの曲をジングルのように使っていたのは、だから、偶然ではない筈。
  • しかし、だからと云って毎回不発なのとか云えば決してそうでもなく、時折ぽっと、ぱかーんと会心のが来たりする。まぁ、そんなものだと腹を括って、生きてゆくしかない。つまり、「童貞」である「女子」が「女」へ一歩踏み出すまでの芝居だった、と云えるだろう。
  • ……と、他のひとにとって、この芝居が本当にそんな芝居だったのかは兎も角、「万化」が活動を休止してから、他の劇団の公演で、大沢めぐみなどはちらほらと顔をみることもあったが、いわゆる「万化女子部」として同じ舞台に立つのは彼女たち(キャラクタとしての、ではなく、女優としての大沢めぐみ、有元はるか、長谷川千幸、村井友美)にとって、大きな喜びだったのではないか。四人の演者が、もう愉しくて愉しくて仕方がない!と云うさまは、舞台から、演出の巧拙など踏み越えて、すごくよく伝わってきた。
  • 劇場を出て、MT君と電話で話しながら日本橋の裏通りをふらふらと抜けてゆく。可愛らしい黒白の野良猫と遭遇。写真を撮らせてもらう。
  • 古本屋をぶらぶらと覗き(石川忠司の文庫本を買って店を出た途端、MR君から石川忠司のことを書いたメールがきて驚く。別の店の百円棚に、バリー・ギフォードの「南」三部作が揃っていて、以前集めた気もするのだがもう何処にあるのか判らないので、儘よ!と。同じ棚にあった石井好子だが、帰ると柚子がぱらぱらとめくって、「おいしそうな文章!」と、ちょっとお気に召したらしいので、そのまま差し上げた。しかし、友人知人から、こんなに本ばっかり買ってどうするの?と時折訊かれるが、そんなこと私が判るわけないじゃないか)、はじめて「自由軒」に入ってカレーを食べる。玉葱の歯ごたえ。近くの古本屋を覗いて、しかし早く帰って原稿を纏めなきゃいけないのだからと、愈々帰宅する。そう云えば先日、高橋源一郎の新刊が出ていて、本屋で手に取ったのだけれど、ああもうほんとうに私は、今のこのひとが書いたものを読みたいと云うレセプタが、すっかり消え失せてしまっているのだなあと、少し驚き、頁を閉じて本を棚に戻したのだった。
  • 原稿を纏めながら、矢代秋雄の本を読んでいたら、「読者のためになんかひとこと」と求められて、矢代は「自分自身の作品、プレイに正確な点がつけられること、これはだいじですね」と語り、続けて、こんなことを云っている。

「世の中でひとがけなそうが、ひとがほめようが、自分はこの作品はこのていどのものだと思っていること。自分の作品の価値を正しく評価するということです。ただし、そのつける点はひとさじ甘めのものがよろしい。ふたさじ甘めの点をつけるやつはこれバカですよ。ひとさじ甘いぐらいの点が精神衛生上もよろしい。それから自分自身にカライ点をつける必要は全然ありません。カライ点をつけて謙虚なつもりになっているのは感心しません。」