「ジェラール・ペソンの音世界」を聴く。

  • 珍しく早起きして準備を整え、出掛ける。梅田のザ・フェニックスホールで、大好きなジェラール・ペソンの演奏会が行われるため(『next mushroom promotion vol.10 ジェラール・ペソンの音世界』*1)。もちろん堂山カンタービレの諸氏と参加である。そもそも私がペソンを知ることができたのは、MR氏の教示によってだ。
  • 演奏会は三部構成で、まずペソンの若い弟子であるニコラ・モンドンによる講義。
  • ジェラール・ペソンは、その友人の彫刻家の作品と、自作の音楽に共通する点を、「ミニマルで、厳格で、若干、雑」と述べているそうだ。
  • モンドンはペソンを、フィルトゥラージュと引用の作曲家であると捉える。それが最も顕著なのが「Nebenstück」と題された、ブラームスの「バラード」をフィルトゥラージュ(濾過)して書かれた曲。時空を経てブラームスの音楽がわれわれの許に届く、または、届かずに消失してしまったり、間違って記憶されたり、本来なかったものが書き足されてしまったりする。時間とその経過と云うフィルタ----それは街を覆う夜の闇だったりするときもある、または記憶と云うフィルタなど、ペソンはフィルタと、フィルタを「経る」と云うことそのものに鋭敏な作曲家である。そして、フィルトゥラージュの果てにある、肉と皮が総て削ぎ落とされて残った、骨の音楽にペソンは魅了される。其処は響きが音楽に変わる、或いは、音楽が響きに変わる場所だからだ。
  • また、ペソンはラジオでクラシックの番組を持っているそうだ。西欧音楽史と云う膨大なディスクをエディットする、DJとしてのジェラール・ペソン。彼の作るいわゆる現代音楽は、クラシックと呼ばれる西欧の音楽と些かも切れていない。モンドンは、何か新しいものを一から構築してゆくと云うよりは寧ろ、記憶に残っているものを掬い取って、譜面に書き写してゆくと云うような比喩のほうが、ペソンの創作の意識としては正確である、と云う。想起としての引用。
  • 記憶、引用、作品を書き始める場所への回帰……と来ると、どうしたってプルーストを思い出す。プルーストの作品のなかでは過去の詩文から無数の引用が行われているが、それらは一字一句の間違いもなく……と云うようなものではなく、ちょうどペソンが「Nebenstück」で行っていたように、書棚からではなく、みずからの裡に沈澱した教養から引っ張ってくると云ったものである。しかしそれはさもありなん、ペソンは博士論文をプルーストと偶然性の音楽を巡って書き上げたそうだ。
  • ところで、ペソンは創作の過程とその日々をつぶさに書き留めているそうで、その日記は公刊されている*2。音楽家の書くものは当たりが多く、たぶん彼の曲を聴く限り、結構な名文を綴っていると思われるので、誰か訳してくれないか?
  • ペソンは演劇----それはもちろん演奏行為そのものに繋がってゆくのだが----に強い関心がある。それは、曲に記されているヴィルトゥオジテが、直に音では表されず、演奏者の身体の動きのほうに顕れると云うようなところにも見ることができる。
  • ……と、モンドン君のそれは、ずいぶんと文学的な解説だった。では実際これらがどのように楽譜で表現されているかに就いては、ささっと触れる程度だった。たぶん、マニアックな楽曲分析もできたはずなのだが、ペソンが本邦では、さほど有名な作曲家ではないと云うこともあり、概説的な説明となったのだろうか? まぁ音符のことは触れられても私には全然判らないけれども。だから、或る程度ぼーっとしている時間を覚悟していたので、ずっと眠らずにいることができたが、きょう会場を埋めていた人びとの大方は音符を書いたり読んだりするひとたちであっただろうから、ずいぶん物足りなかったのではないか? 少なくとも私の隣の三人は、喰い足りなかった様子である。どうせ文学と作品の関係を徹底してやるのなら、ペソンのオペラに就いても説明してほしかったが、それへの言及はなかったのが残念。
  • さて、スターバックスで休憩のあと、第二部からは実際の演奏。「Le Gel,par jeu」、私の大好きな「Mes Beatitudes」はずいぶんガタガタでアラララと思ったが、森本ゆりによる独奏ピアノ「La Lumière n'a pas de bras pour nous porter」からぐっと良くなる。「Récréations françaises」で、やっとアンサンブルの歯車も噛み合うようになり、エンジンも温まってきたところで、第二部は終了。
  • 大阪駅前第2ビルのモスバーガーで軽く食事をとり、第三部。「Branle du Poitou」も上々、「Nebenstück」はまぁまぁ、「Cinq Chansons」は軽さが足りず、もっちゃりとしてしまい残念な出来、再び森本ゆりのピアノ(かなり癖のある音を作るピアニストのように思われる)による「Vexierbilder II」はきわめて上出来、そして本日最も圧倒的で、見事な演奏だったのが最後の「Cassation」だった。五人の奏者が互いの音と身体の動きを常に読みながら、曲とがっぷりと組み合い、素晴らしい音楽を奏でていた。
  • ペソンの曲は、現代音楽のなかでは、ずいぶん聴きやすい。いわゆる特殊奏法だって多用しているが、例えばラッヘンマンのようなソリッドな響きは生まない。西欧音楽史クラシック音楽の巨大な潮流の末端に連なるじぶんの場所を常に自覚しながら、その流れを次に架橋してゆこうとする姿勢では、寧ろラッヘンマンらよりも、意識的であるように思われる。
  • 演奏会のあと、カンタービレの諸氏の共通の知人だと云うKさんも合流して、大阪駅前第3ビルの地下の沖縄料理屋へ。Kさんはプランナーなのか何なのかよく判らないが、さすがに面白い。そう云えばKB君が三月、自作オペラの上演をするそうで、あいつ奴、私がオペラ好きなの知ってるくせに、何でひと言も……。