ぶつぶつと「転向論」を読む。

  • きのうは柚子と出かけようかとか云うていたのだったが、結局やめにして、ずっと家のなかにいる。洗濯機を廻して洗濯物をベランダに干したりする。コロリオフの弾く《フーガの技法》をずっと聴いている。耳はとても冴えてくるが、頭は陶然としている。
  • 夜は、Skypeで『アラザル』編集会議に参加する。階下から柚子が晩ごはんができたよと呼ぶ声がしたので途中で抜ける。
  • 夜中、吉本隆明が1958年に書いた「転向論」を読む。その要旨は次のとおり。()内は引用者が補った箇所がある。

わたしは、佐野(学)、鍋山(貞親)的な転向を、日本的な封建制の優性に屈したものとみたいし、小林(多喜二)、宮本(顕治)の「非転向」的転回を、日本的モデルニスムスの指標として、いわば、日本の封建的劣性との対決を回避したものとしてみたい。何れをよしとするか、という問いはそれ自体、無意味なのだ。そこに共通しているのは、日本の社会構造の総体によって対応づけられない思想の悲劇である。(……)日本の社会的構造の総体が、近代性と封建性とを矛盾のまま包括するからであって、日本においてかならずしも近代性と封建性とは、対立した条件としてはあらわれず、封建的要素にたすけられて近代性が、過剰近代性となってあらわれたり、近代的条件にたすけられて封建性が「超」封建的な条件としてあらわれるのは、ここにもとづいているとおもう。わたしたちは、おそらく、佐野、鍋山的な転向からも、小林、宮本的な「非転向」からも、思想上の正系を手に入れることはできないのだ。(……)中野(重治)は転向によって、はじめて具体的なヴィジョンを目の前にすえることができたその錯綜した封建的土壌と対峙することを、ふたたびこころにきめたのである。わたしは、中野の転向(思考的変換)を、(「転向」や「非転向的転向」より)はるかに優位におきたいとかんがえる。(……)わたしは、ここに、日本のインテリゲンチャの思考方法の第三の典型を見さだめたい。中野に象徴されるこの第三の典型の優位性が崩壊にたちいたったのは、昭和十年代の後期太平洋戦争下においてであった。ここから日本的転向の問題は、また、別個の課題にさらされるのである。また、それがわたしたちにまったく別個の思想的典型を創造すべき課題を負わせている理由でもある。

  • 吉本は、この「転向論」を執筆するに際して、「わたしのモチーフは、かんたんにいえば、日本の社会構造の総体にたいするわたし自身のヴィジョンを、はっきりさせたいという欲求に根ざしている」と記し、そのしばらくあとで、「当面する社会総体にたいするヴィジョンがなければ、文学的な指南力がたたないから、このことは、すべての創造的な欲求に優先するというとてつもないかんがえが、いつの間にか、わたしのなかで固定観念になってしまっているらしいのである」と書く。
  • さて、吉本は「転向論」で、「日本の社会的構造の総体が、近代性と封建性とを矛盾のまま包括」しており、転向も非転向的転向も、それと向き合わないのでダメだと云う。そして、第三の道として、「村の家」の中野重治を、転向したが故に、矛盾を解決しないままの日本の社会が肉迫してきて、それと対決することを決めたことで評価する。だが吉本は、「昭和十年代の後期太平洋戦争下において」、「中野に象徴されるこの第三の典型の優位性が崩壊にたちいたった」と書き、「第三の典型」もダメだったと結論づける。その理由は、この「転向論」では述べられないまま、「まったく別個の思想的典型を創造すべき課題」が私たちには課されてると記して、この「転向論」はぷつりと終わってしまう。尻切れとんぼなのである。
  • つまり、吉本が「転向論」を記すにあたって抱えていた「欲求」が満足させられているのは、「昭和十年代の後期太平洋戦争下」までであり、その後(つまりは、太平洋戦争「後」ということだが)に就いては、この「転向論」では、何も解消されていない。云い換えれば、吉本がオブセッションのようにしている、「当面する社会総体にたいするヴィジョンがなければ、文学的な指南力がたたないから、このことは、すべての創造的な欲求に優先するというとてつもないかんがえ」は、まるで「はっきり」しないままなのである。
  • 「日本のインテリゲンチャの思考方法」の三つの「典型」を挙げ、全部ダメでした、さあどうする?と云うところで終わっているのが、この「転向論」なのであると云う事実は、まず、きちんと再確認しておいたほうがいい。特に、第一と第二の「典型」のなかに、現在の私たちの素描が見いだすことができるとしても、「ほれみろ、お前らは半世紀前の吉本の指摘からなんにも変わっちゃいない「日本的小情況を侮り、モデルニスムスぶっている、田舎インテリにすぎな」いのだ!」と指弾したり自嘲したりすることは、何の意味もない。そもそも、それでは、吉本の「転向論」を生かすことにもならない。
  • つまり、中野重治に就いて論じ、さらに其処から「まったく別個の思想的典型を創造」するには、なるほど「村の家」はきわめて重要なのであるが、やはり、敗戦後に中野によって最初に書かれた小説である「五勺の酒」を論じるべきではなかったかと思うのだ。
  • 「村の家」では、「共産党が出来るのは当りまえなこと、しかしたとえレーニンを持ってきても日本の天皇のような魅力を人民に与えることはできぬこと」と語りながら、しかしやはり、「わが身を生かそうと思ったら筆を捨てるこっちゃ」と、息子を諄々と諭す父の「声」と、その父の「声」を結局追いだして、「よくわかりますが、やはり書いて行きたいと思います。」と答える息子の「声」は、ふたつに分かれたままで終わるのだが、大東亜戦争と、その敗戦を経て、「五勺の酒」では、その語り手である「僕」の「声」や、その語りの調子も、まるで「村の家」の父のそれと、殆どぴったり重なると云ってもよいほど、とてもよく似た「声」になっているのだ。
  • これを単純に、第三の「典型」が戦争で「崩壊にたちいたった」結果、第一の「典型」へと転落(転向)したのであると読んでは、中野重治を読むことにも、吉本の「転向論」を読むことにもならない。
  • 吉本が中野を、「その転向によってかい間見せた思考変換の方法は、それ以前に近代日本のインテリゲンチャが、決してみせることのなかった新たな方法に外ならなかった」と評価していることに留意せねばならない。
  • つまり、中野が「五勺の酒」で、「村の家」で無碍にした「父」の「声」を、みずから語るようになっていることは、吉本の云う「当面する社会総体にたいするヴィジョンがなければ、文学的な指南力がたたないから、このことは、すべての創造的な欲求に優先するというとてつもないかんがえ」と結びついていると読むべきである。
  • 云い換えるなら、中野はまさに、みずから掴んだ第三の「典型」が敗戦を経て「崩壊」したのち、「まったく別個の思想的典型を創造」すべく、「五勺の酒」を書き、発表したのであると、考えねばならないはずだからだ。
  • ……と云うようなことをぶつぶつ考えながら、もうそろそろ朝になりそうな夜中、中野重治の全集から、吉本の「転向論」のなかで触れられていた「「文学者に就て」について」(殆ど投げやりなくらいの、でもいいタイトルだと思う)を引っぱりだして読む。中野重治はもしかすると、本当にさっき吉本の云うていたように、近代日本文学のなかで、最も傑出した文人なのかも知れない、と考える。
  • MR君から頂戴した、ミュライユの作品集を少しと、グリゼイの《限界を超えるための四つの歌》(変なタイトルだ)を聴いてから、ようやく眠る。