小説のリハビリ、その他

  • この頃ずっと哲学書の類ばかり読んでいて、まるで小説を読んでいないので、小説が読めなくなっているのではないかと思い、小説のリハビリをしてみようと考えて、井上義夫の編訳の『コンラッド短篇集』から「文明の前哨地点」を読んでみる。ジョウゼフ・コンラッドの小説は怖ろしく真面目で、それがあまりに徹底しているので、まるで不謹慎のかぎりを尽くして巫山戯ているかのようにすらなってくる。それが好きである。この短篇のなかで私が好きなのは(いちばん最後の部分もよい。例えばモンテイロがこれを撮るのを想像してみたりしつつ)、こんなところ。

それから、自分が死んでいて、カルリエは椅子に坐り、自分を見ているのだと想像してみた。その試みは予想外の効果を生み、あっという間に、誰が死んでいて誰が生きているのか、まったく確信がもてなくなった。しかしカイエールは、空想が望外の功を奏したことに仰天し、賢明な理性の助け舟を出して、カルリエに変身してしまう前に正気に戻った。心臓がどきどきし、体が火照っていた。危ないところだった! カルリエという奴は、何という犬畜生だ! そう思って、動揺した神経を鎮めるために――無理からぬことだった――ちょっと口笛を吹いてみた。それから突然、眠りに落ちた――あるいは、眠りこんだと思った。いずれにせよ、霧が出ていて、誰かが霧のなかで笛を鳴らしていた。

  • リュビーモフの弾くベートーヴェンの《op.111》を聴きながらベランダに洗濯物を干す。網戸の向こうで「しま」が、わたしも外に出たいぞ、と鳴く。
  • 夕方、自転車に乗って市役所までゆき、朝、柚子から頼まれた用事を済ませる。古本屋を覗いて、帰宅する。柚子はもう帰っていて、やがて、晩御飯の準備を始める。そうするうち、インタホンが鳴り、「近所で工事が始まるから挨拶にきましたので出てきてください」と云うので出ると、リフォームの営業の女の子がいて、「何処の家が工事するの?」と問うと、実際にすぐ拙宅の近所で工事が始まるわけではないのだが来月あたりからこの界隈を彼女の会社の営業たちがガンガン廻るのできっと何軒か工事になるだろうから、わたしは営業ではないのだけれど、その前に挨拶に廻っている……と云いはじめ、そのまま外壁をコーティングする塗装の必要性を滔々と捲くし立てる。ウチの会社で施工するとかでなくてもいいんです、知っておいていただきたいんです、と、繰り返す女の子の話しぶりのあちこちには、ちょっと沖縄ふうのなまりがある。寒い風が吹きまくるなか、ご苦労さまなことであるが(営業をやっていたことがあるので同情はするが、飛び込みは、やっぱりあまり巧い手であるとは思わない。ところで、彼女はわたしは営業ではないと云っているが、私は彼女が営業であると判断してずっと応対している)、カネがないと云う言明が私のようにほんとうのことではない家へ行ってくれ。「そういうわけで、ウチの家の外壁のことはどうでもいいから。ごめんなさいね」と云うと、「何で謝るんですか?」と返ってきた。まったく薄っぺらーい同情から出た、営業成績に協力できなくてごめんねという意味の言葉だったのだが、そうだった、彼女は営業ではないと云っていたのだった。リフォームの仕事をしている彼女だから、私が云った、外壁とかどうでもいいからという言葉に反発したのかも知れない。しかし、どちらにしても、やっぱり放っておいてほしい。帰ってもらってから、インフルエンザで挫けてしまったままになっている運動をしにゆく。
  • 帰宅してから、柚子と晩御飯を食べる。柚子はとても眠いらしく、いつもよりはやく寝る。小説のリハビリの続きとして、開高健の短篇集『ロマネ・コンティ・一九三五年』を風呂へ持ってゆき、浴槽のなかで読む。「玉、砕ける」、「飽満の種子」のふたつを読む。

わかりきっているのだけれど、そこへもどっていくしかない。適した場所が見つからなかったばかりにいやいやもどっていくしかない。消えられなかったばかりにはじきかえされる。(「玉、砕ける」)

  • 明け方、「しま」が寝室から出てきて、私の膝の上へ飛び乗って、ぶくぶくぶくとうなりながら丸くなる。