地点『かもめ』(茶室版)をみる

  • 朝起きて、「新潮世界文学」のチェーホフの巻を引っぱりだしてきて、神西清の訳の『かもめ』を読む。
  • 昼からアルバイトに行き、そのまま京都芸術センターまで出る。134君から教えてもらってからずっとみようとしながら、発熱だの父親の入院だの私自身の骨折だので、けっきょくこれまで一度もみることができなかった「地点」の公演をみる。彼らのレパートリィのなかでいちばんみたかったチェーホフになったので、よかったのかも知れない。
  • 「地点」の芝居とはどんなの?と問うと、みな大抵、その特異な発話を挙げる。なるほど、実際、きょうの芝居でも、たびたび、抑揚がぬるぬるとながく伸ばされたり、きっぱりと分節を強調してみせたり、言葉が何度も繰り返えされたりした。しかし、むしろ「地点」の芝居の「新形式」はこの発話にあるのではない。この「地点」ぽい発話とは、むしろ、戯曲の言葉を、それを私たちが独りでテクストを黙読するときに得る情報や体験を、その質を変えることなく、どうやって音声に変換して伝えるのかに就いて考察と実験を繰り返した結果のように思われた。つまり、私たちの耳を目にするために選ばれた発話なのではないか。だからこの奇妙な発話は、テクストに色とりどりのマーカーで傍線を引くのと相似で、判りにくくするためではなくて、判りやすくするための努力の結果なのである。
  • では、「地点」の芝居の「新形式」は何処にあるのかと云えば、それは、上演に用いられるテクストのレヴェルに存在している。この『かもめ』の上演は一時間ほどで、だからチェーホフが『かもめ』で書いた台詞の総てが使われるわけではない。この芝居で主に発話するのは、トレープレフ役だが、このトレープレフは彼の台詞だけでなく、彼が対立するトリゴーリンなど他の登場人物の台詞を奪って(無論、それが判ったのは私が事前に『かもめ』を読んできたからだ)、彼の台詞として話す。だからこの『かもめ』は云わば『トレープレフの『かもめ』』であり、この芝居の「新形式」は上演のために形成されたテクストによって枠づけられていると云うわけなのである。
  • しかし、このアプロプリエーションの痕跡が露わな『かもめ』は面白かった。ぶん殴られるような驚きはなかったが、とても真面目な芝居だった。役者たちの水準も充分に高い。トレープレフが主軸の『かもめ』なので、アルカージナ役の女優はずっと黙っているが、初めて台詞を話し始めたとき、その声の響きに大いに打たれた。終ってからパンフを確認して、窪田史恵という役者だと知る。
  • 帰宅して、柚子のつくってくれた豆カレーと、パンを焼いてマーガリンを塗ったのを食べながら、Y嬢と電話で話をする。
  • しかし、あの小劇団の開演までのロビーの雰囲気に馴れない。顔見知りばっかりで、やあやあと挨拶を交し合っているのをみていると、社交の場としての機能があるんだからいいじゃないか、とか、じぶんだってときにはその社交の渦のなかにしばしばいることだってあるじゃないかというような判断より先に、こんな演劇のインサイダーだけしか寄ってこないような芝居をみにきて、私は、ものすごくじぶんの人生の時間を無駄にしているのではないか、と云うような気持ちになる。
  • ところで、チェーホフを読んだのは、たぶん小学校のとき以来だが、あの頃は短篇小説が好きだったので、戯曲はまるで覚えていないが、ガキが読んだって、『かもめ』なんて、まるで判りはしなかっただろう。ひとつの場面やら人物たちが何の背景も奪われて、投げ出されてあるその「ごろり」としたさまは、きわめてえげつない。粛粛と殺戮に勤しんだ20世紀的であると云ってもいい。