- 盛んな雨。夕方、難波まで出る。久しぶりに古本屋をぶらり。シアトリカル應典院で、「May」の『ファンタスマゴリー』をみる。
- 最もコンパクトに劇団としての「May」の魅力が詰まっているのはストレート・プレイとマダン劇での経験を交差させた短篇の『晴天長短』だと思うが、彼らの代表作と云っていいだろう『チャンソ』と『風の市』の二本立て再演を経て、或いは『夜にだって月はあるから』で、金哲義がチャーリー・チャップリンを体現してみせて以来、彼らが次に何をつくるのか、すごく興味があった。『ファンタスマゴリー』はこれまでの彼らが積み重ねてきたものをまるごと含みつつ、さらに先へ進んだ意欲作で、とても気に入った。芝居が終わって、思わず涙がこぼれてくるのを抑えられなかった。
- 「社会」のなかで視線を閉ざすのではなく(むしろ「社会」の可塑性をつかまえなおすために)、「社会」を含みつつ超える「世界」(または「世界」からの視線)を意識すること、が表現されていたのであり、(だれかがツイッターで書いていたみたいに)「父の大義」から「母のまなざし」へのシフトなどではまったくない*1。
*1:こんなのは当たり前だろうと思っていたけれど、母の視点と云っているひとが他にもいた。「母=「世界」」というわけなのだろうか。それならば、私たちは「母のまなざし」から逃れられないということになる。そんな狭隘な「世界」は、勘弁してほしい。