• 「学びを起動する」というようなクリシェをときどき耳にするけれど、いつまでも違和感を拭えない。たとえば、「PCを起動する」ならもちろん判るのだ。PCは私たちの外部にあるひとつの独立した「もの」としてあり、「起動する」とは、それを何らかの操作で使えるようにする、ということだからだ。しかし「学び」とはそういう「もの」ではなく、常に「学ぶ」という「こと」でしかあり得ないはずなのだ。ぽちりとパワーボタンを押すように、或る時点からそれまでの「学び」のない状態とは異なる「学び」の状態が始まる、などというふうには、誰も私たちは学ばないはずである。もちろん、学ぶために使われる「もの」は幾らでもあり得え、またそれらの「もの」が学ぶことを容易に(または惹起)するということはあるが、しかし「もの」を揃えさえすれば、「学ぶ」という「こと」が始まるのかと云えば、そんなことはないのである。
  • 仕事を終えて三宮の古本屋を覗いてから帰宅する。