• 仕事の帰りにミント神戸のOSシネマズで北野武の『首』を見る。
  • 緑の川の浅瀬で、切り株のようになった兵隊の首を食っている真っ赤な蟹のショットからふと『ツィゴイネルワイゼン』を思い出すが、この映画の緑とは、利休の椀の中の抹茶だろう。利休の茶で媒介される流れがこの映画のドラマを作っており、信長の発作のようなそれに代表される暴力の発露としての血の赤は、その巧まれた流れを切断しようとして、噴き上がる。茶でも血でも、また男たちの尻でやりとりされるザーメンでもなく、いきなり黄色いゲロを吐く秀吉こそが、ひとまず勝ちを収めることを私たちは知っているが、天下泰平には、緑も赤も黄も白も、とにかく乱れた流れが溢れ出さないようにしっかりと蓋をしておくことが肝心だ。蓋としての首の替えなど、幾らでも用意できる家康が最後には勝つことを、私たちは知っている。彼は好物の鯛も、不細工な女も決して食べることすらしない。つまり『首』とは、接して漏らさず、という映画だった。「昔の北野映画なら」などと思ってしまうが、これが今の北野映画なのである。備中高松の水攻めの絵や、いよいよ映画が終わる最後のところなど、これを北野はどうしても撮りたかったんだろうなというショットが幾つかあった。ゆえに、幸せな映画だったとするべきだろう。
  • 帰宅してハヤシライスを食べて、洗濯物を取り込む。とても寒い夜。