• ジュスティーヌ・トリエの『愛欲のセラピー』を見る。ベルトラン・ボネロの傑作『サンローラン』のギャスパー・ウリエルが出ていて、そういえばもう彼は死んだんだったと思う。ヴィルジニー・エフィラの顔は好き。途中からゴダールの『軽蔑』ごっこのような映画になる。やはり、『落下の解剖学』と同様に、たまたまマイクが拾う声と、映像とは無関係に(無関係であるかのように)サウンドトラックを埋める心の声が、核になる映画。声(録音物)が核にあって、映像はその解釈やイメージ(「写真はイメージです」の注意書きにも似た)としての映画。告白と独白をめぐるゲームとしての映画であり、常にそのゲームへ参与してくれる観客を誘う映画。人間のコミュニケーションの道具として作られている映画の不愉快さ。そんなつまらないことを、私は、映画がしなくていいと思っている。