- 昼前から病院。いつものリハビリと、三週間ぶりの執刀医による診察。経過は大変良好で、水泳ならまたはじめても良いとのこと。
- 夕方から難波の古本屋を経て、シアトリカル應典院で、コレクトエリット*1の『カミシメル』をみる。頑張っているが、噛み応えはいまひとつ。
- その後書いた劇評。
- 舞台は、口の字のかたちになっていて、その三方を客席が取り囲んでいる。舞台の真ん中に空いた矩形の穴から劇場の天井に向けて、細い金属で編まれているらしい、ひょろひょろとした樹のようなオブジェが延びている。そのところどころで、細い幹から育った葉のようにもみえるものは、針金でつくられた輪っかである。この輪っかのぐるりの一点から針金が枝のように一本突き出しており、幹と繋がっている。金属の輪と、それを幹と繋いで支える針金はちょうど、子供が聖誕祭あたりに仮装で頭に被る、おもちゃの天使の輪にそっくりである。
- やがて、舞台に、のそりと現れた役者たちは皆、私が子供の頃『ロビンソン・クルーソー』の挿絵でみたような、ふわふわの羽根で覆われた服をすっぽり着こんでいる。
- 先に、この芝居は、天使たちの演劇だったと纏めておく。それは、時間と空間をふわふわと漂っており、ありとあらゆるものを眺めることはできるが、何も触れることができないというような存在であるとしておく。
- この芝居は、舞台上の俳優たちが話す言葉と、運用する身体の分節のありかたを変容させることで、それでもなお演劇であり得るのか、また、それは何処まで可能なのかを、もういちど問い直し、立ち上げなおそうとする企みなのだろう。
- 云うまでもなく、此処で問いなおしを受けている演劇とは、劇場の舞台上で上演されるプログラムのことだけではなく、見物として、それを見守っている私たちがあらかじめ保持している演劇観も含むだろう。
- なぜなら、演劇とは斯々然々のものである/演劇とは斯々然々のものではないという判断のフレームの作動が、観客席の前で進行しつつある何ものかを、演劇(または、演劇ではない)として、それをどのように評価するのかを決めているからである。無論、目の前で生起する何ものかとの遭遇によって、このフレームそのものが拡張されたり書き換えられたりすることもある。
- むしろこのフレームは固定的なものであることよりも、そのように可塑的であることによって徴づけられている(だからこそ私たちは、それまで知らなかった新しいものやことに遭遇したときでも、それに感動することができる)。
- そうであるなら、演劇の問いなおしを目論むとき、この見物たちを巻き込んでその既成の判断のフレームを揺り動かすことなしには、その目論みをよく遂行することはできないだろう。舞台の上だけでそのフレームの揺り動かしが滞ってしまうなら、それは片手落ちなのである。
- では、それを遂行するために最も役立つものは何だろうか?
- これは端的に、「驚き」ということになるだろう。
- 「驚き」が起きるには、まずそれが、フレームの予期を超えていなければならない。充分な予期が成り立つとき「驚き」など起きはしないからだ。
- しかし、まったくフレームと無関係な、偶然の事故のようなものであってもだめである。
- なぜなら、例えば芝居をみている最中に劇場に隕石が落ちてくるというのは非常に大きな「驚き」であるだろうが、それは演劇とは無関係な「驚き」であり、私たちが演劇とは何かを判断するフレームを揺さぶることはないからである(劇場以外の何処にいても、いきなり隕石が落ちてくるのは「驚き」である)。
- 単なる事故ではなく、演劇であること(または、その判断のフレーム)と分かち難く結びつきながら、かつ、既存のそれに決定的な改編を迫るもの、それが演劇に於ける「驚き」になるだろう。これは、演劇だけでなくあらゆるパフォーミング・アーツに於ける、と云い換えても構わない。
- では、この『カミシメル』と題された演劇には、観客席で坐っている見物たちと、舞台の上にいる俳優たちもまた抱えているだろう、演劇なるもののフレームを揺り動かすほどの「驚き」は宿っていただろうか?
- 舞台の上で、演劇を遂行している俳優たち自身の「驚き」はあったように思う。
- しかし、それは彼ら自身から分泌され、彼らを繭のようにくるみ込む分だけの「驚き」でしかなかった。
- それは見物である私たちをも巻き込むほどの「驚き」にはならなかった。舞台の上の彼らの自身の、「私」の「驚き」だけが多くて、見物までを巻き込む「私たち」の「驚き」は、とても少ない芝居だった。
- では、これは難解な芝居だっただろうか?
- いや、むしろ難しさこそがまるで足りなかった。
- 「これはいったい何なんだ?!」と判断のフレームが機能不全を起すとき、難解さは「驚き」を喚起する大きな契機となり得る。
- だが、この芝居では言葉と身体、それぞれの見直しは不徹底で、見物から「驚き」を引っぱりだすには充分ではなかった。難しいから退屈なのではなくて、必死になって読み解くことを見物に作動させる難しさの欠乏こそが、退屈を生むのである。
- 私はこの芝居で、殆ど「驚き」を覚えることができなかったが、それでも、「あ」と思ったところがあったので、それを書いておきたい。
- 舞台の上で、男と女、ふたりの役者が端坐して向き合っている。彼らは出征前の兵士とその妻であり、慌ただしく結婚式を終えたばかり。夫が戦地へ発つのは三日後である。ふたりの身体の動作と声は分けられていて、彼らは無言で、声は他の役者たちによって担われる。「おはよう」とか「ごちそうさま」とか「おやすみなさい」などの、一日のうちで交わされるほんの短い挨拶が、客席に届く。これが三度繰り返されて、夫婦の暮らしが終わったことが示される。
- 夫婦の三日間の夫婦生活は、挨拶のやりとりの繰り返しにまで切り詰められており、その省略の間を埋めることは、すっぱりと見物に放り投げられている。
- その委ねっぷりは、それまで進行してきた芝居の組み立てに比べると唐突なくらいだったが、しかしいっそ、潔いほどのものだった。
- そのときに思った。
- この芝居は全体としては、演劇に於ける言葉や身体の見直しを目指しているのだろうけれど、残念ながらとても不徹底であると、はじめのほうで書いた。が、しかし、そうではないのではないか。
- この芝居を「ふつう」の芝居と分けるものとして徴づけられている、役者たちの四肢の顫動や台詞の分節は、芝居なるものの問いなおしを目指しているのではなく、或る種の「逃避」の表れなのではないか。
- これらはつまり、観客席の薄闇に潜んで気配と視線で舞台を圧する見物なるものと、まともに往還することを怖れていることから、その防衛として発現しているのではないかと思ったのである。
- これを別の角度からみるならば、彼らに共感してくれる見物を渇望しているということでもあるだろう。
- ときおり舞台の上から役者たちが、たびたび客席を思う存分ねめつける。
- それは、演劇の見直しという作業を彼らが遂行していると考えるならば、一般の演劇では、俳優たちだけが見物のほうから一方的に注視されつづけることや、その自明視に対する抵抗や異議申し立てであっただろう。しかしむしろ、あの執拗な注視は、じぶんたちがやっていることをじぶんたちと同じように理解して、共感の視線を注いでくれる見物がきっといるはずだと、必死に探す眼だったのではないだろうか。
- どんなに難しい芝居で見物を混乱させても構わない。ただし、見物は決して、舞台の上の「私」と同じように考えないし感じることもない。見物はただジッとみているだけである。
- そもそも演劇の可能性の核は、共感を誘発するための道具であることではないはずだ。だからこそ、共感のやりとりができる存在としてではなく、ただ薄暗がりに坐って、舞台を眺めているだけの存在として、見物は舞台から信用されなければならない。そうでなければ、どんな演劇も先に進むことはできないだろう。
- ところで、この兵士の夫は妻に、「私は御国のためにではなく、あなたのために戦争に行きます」と述べる。新婚のカップルの睦言として捉えるならそれでよいのであるが、あまりにも紋切型で、これでは彼が劇中で語られるほど聡明な人物であるとは到底思えない。
- なぜなら、このように考えてしまうことで、彼は戦争を個人の責任に於いて担ってしまっている。大切なあなたを護るために戦争をするのなら、大切なあなたが戦争で死んでしまったとき、彼はもう戦争を終らせることができなくなる。実際、彼は戦地で死んだのに、成仏できずに化けて出ることになる(舞台の中央が空っぽであることと、兵士の幽霊に憑依される主人公らしき男の空っぽさは繋がっているだろう)。
- 戦争とは、私刑や復讐などの、個人的な暴力とは無関係である。
- 私は、私たちが生き延びるために「国家」なるものをよく使い得るようにしておくこと(断るまでもないが、それは愛国心を発揚させるための教育だとか、そんな視野狭窄な与太話とは何の関係もない)は必要であり、そのためには、ひとりびとりが「国家」に就いてきちんと考え直しておく必要があると思っているが、これは余談である。