• ジュスティーヌ・トリエの『ソルフェリーノの戦い』を見る。『愛欲のセラピー』からヴィルジニー・エフィラの良さを抜いてしまうと、これがまだいちばんいい。おやじがベビーベッドで眠る子供の写真を撮るのだが、まるで死体を撮っているような気持ち悪さ。そのあと、「パパ」と幼子が呟く声で、この小汚いおやじの印象を変える。ここにも懐疑なしの「本物の声」が埋め込まれている。それはもちろん映画なのだから、録音機器を通して録音された声(何度も同じように再生し得る声)なのだが、一回性の声であるかのように提示される。
  • オットー・プレミンジャーの『或る殺人』を見る。評価するには難しい映画ばかり見たあとに、こういう映画を見ると、最高に気持ちがいい。「酒場のおやじの車に乗ったのは初めてでしたか?」とジョージ・C・スコットが疑いながら尋問するとき、カメラが証人席のリー・レミックの顔にわずかに寄る。「初めてでした」と答えるときに、彼女の瞳孔が蓋がれたように翳る。人間の眼にはこうは見えないだろう映像が現れる。非人間的なものの出現の可能性、これこそが映画の面白さなのではないか。そしておそらく『落下の解剖学』のダニエル少年の濁った鉛色の瞳孔はここから意匠だけを借りてきているのだろう。『落下の解剖学』のお芝居の上手なドックであるスヌープに比べて、『或る殺人』のムフの、ぽちりと電燈を点けるだけの犬らしい可愛さよ。そういえばレオン・ユリスの『Exodus』を読んでいるショットがあったが、プレミンジャーはこのあとこの小説を原作に『栄光への脱出』を撮るのだった。