- 今日は定時少し過ぎに事務所を出て、実家に。
- 村上龍の上下巻の大作、『半島を出よ』を読み終える。福岡を占領した北朝鮮の特殊部隊の兵士たちと、ストレスまみれの過去を持つ少年たちが対決する物語。村上龍が小説の世界に戻ってきたことを、まずは喜びたい。だが、この小説の読後感は、今までの村上龍のどの小説とも異なっていた。傑作でもなく駄作でもなく、凡作と云うのでもない。しばらく考えて、やっと判った。これは大人を対象とした小説ではなく、ジュブナイル、いわゆる児童文学なんだ、と。
- この小説は喧伝されているような『コインロッカー・ベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』の系譜に連なる小説ではない。寧ろ『13歳のハローワーク』こそが、この小説の親である。
- 『13歳のハローワーク』は、職業カタログと云うかたちで、村上龍が現代日本社会を子どもたちに腑分けしたものだった*1。『半島を出よ』では、子どもたちに向けて、実にキツい状況にある現代の日本の大人たちの社会の諸相と、其処でサヴァイヴする方法を、寓話的に語っている。社会と云う捉え難いものが持つ、多様な側面とダイナミズムを維持したまま呈示するには、カタログよりも物語のほうが適しているだろう。そういうふうに判断したから、村上龍は久しぶりに小説に手を染めたのではないか。
- つまり、『半島を出よ』の冗漫なほどの長さは、最近では『ハリー・ポッター』シリーズにも継承されている児童文学の特徴のひとつだし、類型的なキャラクタたちや、随所で繰り返されるメッセージも、如何にも児童文学的である。無人島に流された少年たちが協力し合い、やがて帰還を達成すると云うあらすじを持つ、『十五少年漂流記』のことが作中で触れられるが、これも偶然ではないだろう。
- 『半島を出よ』を、壊れた時代のジュブナイルであると読むならば、その主軸は具体的には、本物の「友だち」を得るまでの物語となる。コミュニケーションの形式を、支配と服従のふたつしか持たない北朝鮮の兵士たちは、「友だち」と云うものがどんなものか判らない。そして、他者との適切なコミュニケーションに失敗し続けた少年たちもまた、「友だち」がどんなものか判らない。そんな彼らが、いろいろの経験を経て、やがて大切な「友だち」を見つける。
- 『13歳のハローワーク』を買い与えた親御さんは、この本もお子さんに与えてみてはどうか。何しろ、立派な児童文学ですから。嘗て村上龍の得意分野だったエグい性描写も皆無なので御安心を。ただし村上龍の新作に児童文学なんぞ、まったく期待していなかった私には、とても残念だったが*2。
- ところで、コルト・ガヴァメントが暴発するシーン。私はスライドを引いている描写がないことから、薬室に弾は入っていないので、引き金を引いても弾が出ないのだと思っていた。作中にあるような「ガヴァメントのグリップを力いっぱい握っているのに、グリップ・セイフティは握られていない」なんてこと、あるだろうか? 甚だ疑問である。
- ティーレマンが2001年のバイロイトで指揮した『パルジファル』を聴く。明日も朝早くから仕事なので第一幕だけ。想像以上に素晴らしい。ダイナミックで堂々たる演奏だが、クナッパーツブッシュのそれに時として見られるようなもたつきもなく、歌手たちも良い。とても気に入る。