『ダージリン急行』を観る。

  • 五時半に起きて、そのまま数時間、再び寝る。起きた瞬間、取りあえずの構成を思いつく。慌てて携帯でメモを取り、PCにメール。
  • 風呂に入り、シチュウを食べてしまい、書き物。ずっと昔に手に入れてそのままにしていたピンク・フロイドの『ECHOES』を聴く。非常に巧みなエディット。『炎』に入っている曲は本当に素晴らしい。
  • 夕方から出掛けて、柚子と三宮で待ち合わせて、いつもの「ムジカ」で夕食。堪能する。
  • シネ・リーブル神戸のレイト・ショウで、ウェス・アンダーソンの『ダージリン急行*1を観る。すごく「いま」の映画だと思った。少なくともウェス・アンダーソンはその'70年代好みにもかかわらず、紛れもなく「いま」の作家だ。
  • 一見すると、まるで些かの計画もないかのように、ひたすら画面上を滑り続ける----いや、きちんと表現するなら、画面の表面に凸凹があり、それに沿って滑ったり引っ掛かったりするようなキャメラ・ワークに最初は面食らうが、やがて、この映画には、このキャメラ・ワークしかありえないことに気づく。何故ならこの映画は、画面の向こう側を、画面の「奥」を何も持たない映画だからだ。例えば、時折挟み込まれるスローモーションの映像が非常に美しいが、それは其処に、些かの映画的隠喩もなく、表面の運動だけが遅延されているからだ。撮影はずっとウェス・アンダーソンと組んでいるロバート・イェーマン。
  • 云うまでもなく、映画の出発を告げたリュミエール兄弟の『ラ・シオタ駅への列車の到着』は、画面の奥から列車がグイグイとこちら側ににじり寄ってくる映画だったが、『ダージリン急行』に於ける列車はひたすら、画面の上を、ひらひらくねくねとするのみだ。そして、たびたび登場人物たちと、観客席のこちら側とで、互いの目を覗き合うことになるようなショットが幾度が現われる。それがあれば、その映画に於いて、古典的な映画のシステム(ラカン派ならもちろん「象徴界」と呼ぶものだ)が、すっかり崩壊しているのが判る。唐突かつ残酷な事故や死の訪れは、まるで、その崩壊を糊塗しようとして、寧ろ、際立たせるかのようでさえある。
  • しかし映画が終わったあと、後ろの席のお嬢さんが「インドに行きたくなっちゃうね」と仰っておられて、驚く。たぶん、実在のインドで撮影されている映画だが、私には、如何なる実在のインドともこれっぽっちも関係のない映画だと思われたからだ。
  • ちなみに、支那語ではこの映画は『大吉嶺有限公司』と記すらしい。そのまんまだが、なんか、いい。
  • ライフ・アクアティック』より、私は『ダージリン急行』のほうがずっと好きだ*2
  • ツタヤに寄ってから帰宅し、就寝前の柚子の肩を揉む。しかし彼女は前に見た映画のことをかなりよく覚えていて、驚かされる。決して彼女の趣味ではない映画ばかりを私が選んでいるにもかかわらず。