レーニンである。

  • 朝起きて、皿洗い。PCに向かい、ぽちぽちとキィを叩く。
  • 昼過ぎ、ベランダの外で、カラスの鳴き声。隣室のソファの上でクロワッサンのようなかたちで眠っていたはずの「しま」が、音もなくやってきて、背を低くして硝子窓越しに、音の在り処を覗う。彼女はカラスをライヴァル視している。
  • ソレルスの『女たち』を捲っていると、ボッケリーニの交響曲《悪魔の家》が、サドの小説にぴったりの音楽として出てくる。ハルモニアムンディの50枚入りのボックスを漁ると出てきたので、初めて聴いてみる。三人の若い女が、少しずつ違うスピードの、しかしどの娘も猛烈な勢いでくるくるくるくるくると旋回し続けて、やがて笑いながら見事に彫琢された虹色のゲロを吐きだすことになるような音楽だった。かなり好き。
  • 夕方、ほんの少しだけ家を早く出て、郵便局へ寄ってから、アルバイトに。
  • 『ロスジェネ』vol.4(最終号)の大澤信亮杉田俊介の長い対談を読み終える。切実な思いで、読んだ。それは、『アラザル』の名前も、ちらりと出てくる(誰かの意識の上を、私たちの雑誌が、かすめているということへの責任を感じる)からだけではなく、『アラザル』でやってしまっている、批評でなければできないこと(他の書きかたではなく、どうしても批評になってしまう。おれの頭のよさ、批評でみせるぜ!ではなくて、うわ、やっぱりまた批評になっちゃったよ……)を、同年代(『アラザル』で云うなら、大澤・杉田の生年は、私と阪根のそれと同じ)の彼らが、やはり同じように、しかしもちろん私たちとは全然別の隘路を懸命に昇り、じりじりと進み続けていることに、私個人として、大いに励まされる。
  • もっと懸命に本を読み、さらに考えなくてはならない。必死に考えるためには、必死に勉強しなくてはならない。もういちど(何度でも)じぶんの出発点に立ち返り、考えることだ。
  • ギュンター・フィガールの『ハイデガー入門』を読み始める。よく書けている。

ハイデガーの哲学的営為を理解しようと思うなら、彼の作品の実験的性格を受け入れねばならない。そうしたことからいえば、彼の営為への一つの通路は、とくにその展開が途絶えたところに見つかる。ハイデガーは、自分が設定した問いを追及しながらも、解決の試みが不十分だとわかったとき、躊躇せずそれを別な仕方で設定し直す。そんな彼のやり方がどういった一貫性をもっているかは、展開の途絶えたところから見えてくるのである。

  • 帰宅して、柚子と晩御飯を食べ、お茶を呑む。そのまま朝まで、うたた寝してしまう。