• 少し遅くまで眠ってしまう。慌ててPCをぽちぽちとやって(途中、「しま」が階下で啼きはじめて、行ってみると、きょうの要求は、窓を開けて網戸にして風を入れてくれ、だった)、プラズマみかん*1という劇団の『わんころが揺れ雲をめぐる冒険』の劇評*2を書き終える。もう疾うに書き終えてアップしていなければならないものだったのだけれど……。
  • 江藤淳という批評家は、その生涯の大半を、妻と犬と「家族三人」で暮らしたひとだが、彼がこんなことを書いている。
  • 「それにしても、犬を飼う愉しみというのはいったいなんだろう? それは、ことによると、うつむいていつくしむ生きものが身辺にいることの充足感、といったようなものかも知れない」。猫ならしばしば、私たちの視線よりずっと高い場所へ登ることもある。しかし犬ならば、たとえどんな犬種であっても、「とにかく少し顔を伏せて、視線を落して見る、というのが、私ども人間の自然の姿勢である。子供に対しても、私どもはこういう姿勢をとるが、子供はやがて大きくなってしまうのに、犬はいつまでもうつむいて見る場所にいるのである」。
  • この芝居は犬の劇である。
  • だから、視線の劇である。
  • 私は、この芝居を、便宜上ストーリィで三つに区分すると、そのふたつを、殆どよいと思うことができなかった。野良犬たちの追跡劇と、大きな傷を受けた子供の困難な恢復と、彼女の人生に「感染」したふたりの女友達に就いての劇である。役者は皆、ずいぶん健闘していたけれども、結局、演出はストーリィを展開するのに終始した。お話の流れだけで十全に表現できるのなら、わざわざそれを演劇でやる意味は何なのか?ということになる。
  • しかし、残りの三分の一は、ずいぶんよいと思った。理由ははっきりしていて、演劇でしかできないことを演劇でやろうとしていると思ったからである。だから、この芝居で、私がよいと思ったこの三分の一に就いてだけを書く。
  • 「魔物」がやってきたと表現される、何かとても大きな災害──劇中で、きわめて不用意に「シンサイ」という言葉が口にされるが、これは作り手の傲慢なのではないか。それは「シンサイ」を舞台に乗せることではなく、そう口走らなければそれが伝わらないのではないかと怯えてみせることそのものが、である──が起きてしまった後、生き残った夫婦がいる。
  • 夫は学校の教師で、子供たちから兄のように慕われている。しかし彼は、破滅的な災害が起る直前、空が奇妙な雲に覆われていた(「割れ雲」)のに、それが指し示す(と彼が考えている)破局を読み解くことができず、補習授業の子供たちを帰宅させてしまった。そのことが、彼らの死の原因になったと信じている。「魔物」の到来を生き延びた彼は、その後も以前と変らず「子供たちから元気を貰う」快活な教師を続けているのだが、同時に、壊れて、損なわれてもいる。彼は真夜中になると家を抜け出して、公園の野良犬を集めて補習授業を行うのである。野良犬どもが、彼の欠損を──死なせてしまった生徒たちの不在と、「割れ雲」を読解することのできなかった教師として失敗のふたつを──埋めている。教師は、どんな生徒であれ、生徒がいなければ決して教師になることができない。しかし生徒がいれば、彼はどんな教師であれ、教師であり続けることができる。もちろん、野良犬に幾ら故事成語や算数を教えても、できるようになるはずがない。人間ではないのだから、当然である。
  • この芝居は、私たちの「現実」をはみだすことはない。「現実」とは実際に起きることではなく、それを支え、構成している認識のフレームのことである。例えば、私たちは、私たち自身の死を決して死ぬことはできないにも関わらず、人間は必ず死ぬのだと云う。つまりそれは、私たちの経験ではなく、私たちの生きている「現実」からやってきた認識である。別の云い方をするなら、私たちの「現実」とは、主語と述語の安定した関係の取り結びであると云うことができるだろう。「人間」と云う主語に対して、「決して死なない」という述語の結びつけは普通の情況では成り立たない。その成立不成立を支え、判断しているのが「現実」である。
  • 一見どんな奇妙な情況が提示され、台詞が発されても、この芝居のフレームは常に「現実」のなかにある。だからこそ、夫がどれだけ熱心に補習授業を続けても野良犬の生徒たちは何も学ばない。犬だからである。しかし犬たちがそうあってくれるからこそ、彼は出来の悪い生徒たちの教師としての振る舞いから得られる享楽をいつまでも手放さずに、安心して貪ることができるのだ。夫は狂っているのではなく、とても安定しているのである。
  • さて妻のほうは、カタストロフのあと、多くのひとが死んだのに、じぶんは生きているということが確かであると思えなくなっている。そのため、始終、夫の視線を必要としている。夫をみつめるたび、夫からみつめ返されることを強く渇望している。みる・みられるという視線の関係が成り立つとき、妻は、自身が今みられているのだから生きているのだと感じることができる。生の確かさが視線の供給で更新されるのである。だから妻は、夫が蒲団を抜け出して、毎晩そっと家を出て行ってしまうことを、ひどく嫌う。それは夫が何処かで誰かと会っていることへの嫉妬でもあるだろうが、むしろ、それよりもさらに、朝になるまでの長い時間に、ふと目覚めてしまった彼女の視線が、それを引き受ける先を失って、とめどなく彷徨いだすことになってしまうからなのである。
  • 夫婦は、たびたびTVゲームをする。それは格闘ゲームで、夫と妻は、舞台上で客席に向かって正対して並んで立ち、さまざまな技の名前を叫ぶ。実際の格闘技なら、プレイヤはプレイヤと相対する。しかしTVゲームの場合、それが生身のプレイヤの操るキャラクタ同士の対戦である場合も、私たちは相手のプレイヤではなく、彼が操作するキャラクタが映るモニタと正対する。妻は最初、格闘ゲームが上手でも好きでもなかったが、夫の不在の夜、留まる場所を失った視線を、しかたなくモニタに向け続け、ゲームの操作に没頭していたので、やがて、すっかり夫を打ち負かすようになる。
  • だからと云って、幾らゲームをやって時間を埋めても夫婦の視線は交わらぬままなので、野良犬を教えることで安定した精神の健康を享受している夫と異なり、視線を欲する妻は不安に苛まれ続ける。
  • そして、妻は、犬に変身する。
  • 犬となった妻は、家から飛び出して、外を駆ける。
  • やがて、妻は、犬と人が同じ立場で暮らすことができると謳う「王国」に辿りつく。妻は、その施設の「王様」と「女王様」と名づけられた二頭の犬の息子である若い牡犬の「王子様」に見初められ、婚姻し、子供を孕む。だが、しばらくすると「王国」は崩壊し、混乱のなか、妻は胎のなかの子供の父である「王子様」犬を棄てて「王国」を脱出し、再び、夫のもとに帰る。
  • 夫は、足許を決して離れず、いつも潤んだ眼でじぶんを見上げてくるのが一頭の牝犬であり、しかしあの妻であることを同時に了解している。夫は、この牝犬を妻であるかのように感じているのではなく、この犬はあの妻が帰ってきたのであるとはっきりと判っているのである。
  • だから、此処から始まるのは新しい狂気や逸脱ではなく、すっかりこんぐらがってしまった夫婦の関係の糸の結びなおしとなる。
  • 夫は、あらためて妻を「うつむいていつくしむ」ようになり、野良犬への補習授業から引き出していた貪婪な享楽から、やっと抜け出すことができるようになる。そして妻は、彼女の根本の欲望であるところの、この夫からのいつくしみの視線を常に浴びて、すっかり寛いで、「ワン!」と啼く。
  • 芝居の終りで、夫が「妻が子供を生んだ!」と叫ぶ。その声は、盛んな喜悦できらきらと輝いている。
  • 彼の嘗ての教え子であり、大きな災厄の生き残りでもある若い女が、「それは犬の仔ですか?」と訊ねる。
  • 夫は「そうです、もちろん犬です。しかし、子供は、何にだって変ることができる」と答え、未来に於ける無数のメタモルフォーゼの予感を、確信を帯びた表情で語ってみせて、或る穏やかさのなかで芝居は終る。
  • このときの、「犬に変化した妻から生まれた子供がやはり犬の仔だったから何だというのだ。子供は、何にだって変ることができるじゃないか」という夫の言葉は、錯乱の言葉ではないし、つらい情況からの惨めな逃走でもない。彼は愚直に、私たちがなぜか此処で生きている「世界」の汲み尽くせなさに就いて述べている。
  • 彼は、きわめて、まともなことを云っているのである。
  • しかしそれは「現実」から判断すると、きわめてまともではないと受け止められるだろうことを踏まえて、リアリズムのフレームのなかで思考しながら、でも、それがやっぱりきわめてまともなことなのであると「現実」にきちんと伝えるには、どうやればよいのか。
  • 云うまでもなく、そのために召喚されたのが、演劇なのである。
  • とても具体的で簡単な例を挙げるなら、「妻が犬になった!」と夫が叫んでも(そもそも彼らは妻ではなく夫ではなく、その役を演じる役者である)、実際には、妻は決して犬にはなっていない。なっていないが、観客席の私たちの「現実」は、妻は犬になったとして、それからは舞台上の妻をみるようになる。つまり、私たちの「現実」とは、少なくともその程度には堅固ではなく、ゆらゆらと揺れ動く幅を保持しているものなのである。云い換えるなら、演劇という装置を媒介することで照明が当てられるのは、一見堅牢な私たちの「現実」が、実際はきわめて可塑的であるということである。何なら、演劇を含め、いわゆる藝術なるものができることは、わたしたちの「現実」がどんなかたちをしていて、どんな位置を占めているのかを示し、こわばった「現実」に可塑性を齎すことだけなのであると云い切ってしまってもよい。
  • この芝居の三分の一では、その演劇の力が、きわめて荒削りだが、実現されていたと思う。
  • 書き終えて、パスタを茹でて、柚子のつくってくれたミートソースで食べる。
  • 夕方、駅前のKFCで柚子と晩御飯を食べる。私たちの向こうの席では、子どもっぽい顔のヤンキーたちがギャアギャア喚きながら飯を食っている。店を出て、歩いていると、柚子がふと「身体が大きい子供は怖い」と云い、私が先日三次面接まで行って落された某校の名前を出して、「向いていなかったと思うので、よかったんじゃないか」と云う。柚子は少し用事があるので、横断歩道の前で別れる。
  • そのまま駅の近くのスターバックスまで戻って、キャラメルフラペチーノのエクストラホイップを頼む。ちょっと他の店ではあり得ないくらいホイップをエクストラにしてくれるので大好きなのだが、それをちょいちょい呑みながら閉店までの時間、ハイデガーの『思惟とは何の謂いか』とブルース・フィンクの『ラカン精神分析入門』を読んでいる。読みながら急に、さっきの柚子の言葉の深さが、どれくらい彼女が私のことを親身に心配してくれているのかがようやっと判って、そのとき思わず涙が零れる。