『コクリコ坂から』をみる

  • 柚子が出かけてから、だらだらと起きる。洗濯機を廻して洗濯物をベランダに干す。皿洗いをする。
  • 武田泰淳の『司馬遷』を読み始める。
  • 夕方から出かけて、三宮で柚子と待ち合わせ。モスバーガーでごはんを食べてから、チケットを一枚U君から頂戴したので、ミント神戸のレイトショウで、宮崎吾朗の『コクリコ坂から』をみる。
  • 冒頭、ヒロインが目を醒まして蒲団を畳み、身支度をして階段をおりて台所へ入り……、このあたりの各々のショットの長さ、積み重ねのタイミング、キャメラの位置、時間の省略など、とてもリズミカルで大変期待する*1。ところが、その後は時折の例外はあったが、ぜんぜん駄目。まるで紙芝居のよう。たとえば、急な坂道を男女ふたり乗りの自転車が勢いよく降りてゆくというシークェンスが、あの「スタジオ・ジブリ」の名前が冠されたフィルムで、こんなにも身体と運動の躍動とリアリズムをごっそり欠如させていてよいものだろうか?(『借りぐらしのアリエッティ』が優れていたのはこの点が充溢していたからだ)。設定だのキャラクタだのは決して悪くないはずなのに、とても退屈な映画だった。アニメーションが動き(実写と異なり一から描き起さねば無なのだから、まず「動き」の生起には当然「もの」をどう把握し、どう布置するかが重要であるが、これがまるで成っていなかった)の驚きを欠いているのなら、それはただの「おはなし」の絵解きでしかない。そして、そんなものには私は殆ど興味がない(また、天才の父と凡才の息子の創作をめぐる葛藤なんて、フィルムには何の関係もない。フィルムを取り巻く物語消費としてなら愉しいけれど、それだけである。フィルムの出来の悪さは、息子さんも頑張っているんですよ!で免罪されるようなものではないし、そもそも私たちは誰もが必ず偉大な先人のあとからきて、おのれの不出来さに歯噛みしながら、そのあとで何かをつくるしかないのである)。
  • 帰りにスーパーに寄り、エクレアをふたつ買い、帰宅して柚子が紅茶を淹れてくれて、ふたりで食べる。そのまま居間で、「しま」と三人でうたた寝

*1:あとでU君に訊いたら、あれは宮崎駿のサジェストらしい……。