• 昼過ぎまでぽちぽちとテープ起しの続き。ようやく終わる。洗濯物を干してから図書館へ出て、資料のコピーをとる。そのまま実家の近くの散髪屋へ行き、髪を切ってさっぱりしてから、実家に少し寄って帰宅する。
  • 先日みたアミール・ナデリの『CUT』だが、隅々までピントのぴしりとあったビルの遠景だとか、ぶらさがってるサンドバッグが揺らいだり、時折よいショットはある。しかし西島秀俊の演じる映画作家はこの132分の決して短くないフィルムを経て、けっきょく最後まで何も変らない。彼の得手勝手な世界だけで総てが完結していて、他人を受け入れる余地は少しもないままなのである。ヤクザの下働きをしていたらしい兄が殺されて収入が絶たれ、彼はヤクザに殴られる商売を始めるのだが、彼が決めたことはこの映画のなかではとても都合よく、抵抗らしい抵抗もないまま、するすると許容されるのである。ときおり、ヤクザの「上」やらがきてスケジュールの進行に支障が出たりするが、だがそれだって、彼の何かを大きく変えるわけではない。むしろ、殴られるたびに彼は映画の殉教者を気取り始め、映画を、ますます孤立を深めるじぶんを護るための楯として使うようになる。だがしかし、映画とは、立て籠もるのではなく、或るかたちを成すたびにそのつど自身を解体して、ひたすら「外」へと押し拓いてゆくような技藝ではなかったか? 何度みても何か新しいことを考えさせられる映画とは、みるものの決して思いどおりにはならない映画のことである。
  • なるほど、「どんなことをしたって、優れたじぶんの映画を撮りたいんだ」という作家の焦燥感のようなものは、「撮ってないんだからせめてみせることくらいしなきゃ」あたりの台詞からも感じとることはできようが、しかし、ひたすら変化を受け容れることを否認し続ける彼の撮る映画が、たとえそれが彼の生命を賭したカネで購われてつくられる映画であるとしても、到底、彼の私淑しているような、映画を更新し続け、そうすることで自身がその映画の歴史の基礎となってきた映画たちのようにはならないだろう。変化することなしに、いつまでも「よーい、スタート!」することなんてできやしないし、況してや「カット!」と叫ぶことなどできるはずがない。
  • そういえばこれも外国人が東京で撮った映画だったが、ソフィア・コッポラの『ロスト・イン・トランスレーション』と『CUT』はとてもよく似ている。他人がまるで存在しないことだ。そういう映画を撮らせてしまう磁場が東京には、日本にはあるのだろうか? やけっぱちの自嘲で、それこそが日本なのだと云ってしまうことが正解なのだろうか。