• 昼前に起きだして、きょうは会社が休みの柚子と昼飯を食べる。
  • 午後から出かけて神戸の図書館で岩波の『文學』の1987年12月号に掲載の阿部良雄による小林秀雄論「現代性(モデルニテ)の時間的構造をめぐって」と、『現代詩手帖』1986年10月号の、阿部良雄大岡信多木浩二による鼎談「日本モダニズムとは何か」をコピーする。前者では、マイケル・フリードディドロ論への言及をみつける。単行本になっていない阿部良雄の論考で重要なものはたくさんある。早急な再評価と、著作集の出版が望まれる!
  • そのままぶらぶらと歩いて元町まで。梅田まで足を延ばして古本屋を覗くが探している本はなかった。もうじきなくなる「しま」のごはんをひと袋、ポイントカードがいっぱいになったので交換してから、帰宅する。
  • 帰宅して柚子と晩御飯。美味。
  • 真夜中、風呂に入って『精神現象学』を読みながら、頭の隅で、『J・エドガー』に於けるレオナルド・ディカプリオの「声」のことを、ぼんやり考える。身体をすっぽり覆うほどの見事な老けメイクに比べ、その内側から響く「声」はずっとみずみずしさを保っていて、老人を演じる俳優の若さが垣間見えるのだった。
  • それはちょっした違和感として残っていたのだったが、どうしてディカプリオは、イーストウッドは、そうしたのだろうかと、ぼんやりと考えていた。たまたまそうなったのだとは、私は考えない。彼らはそんなにいいかげんではないと信じるからだ。では、どうしてそうしたのかと考え始めるとそれはとてもシンプルで、どれだけ醜悪な老人になろうと、そのなかにいるのはずっと若いままの、幼くて苛々としているフーヴァーであるからなのだ。アーミー・ハマーナオミ・ワッツはメイクが老けるのとともに声も皺だらけになってゆく。(或いは、画面にみえているものと、聴こえてくるサウンドの関係は必然ではなくて偶然であるという原理に立ち返るとき、そもそもトーキー映画とは、二本の映画を重ねて同時に上映しているのであるということもできる。若いままのフーヴァーの映画と老いたフーヴァーの映画を同時に上映することがトーキーでは可能なのである。)やはり、『J・エドガー』は、たいへん優れたメロドラマだったと思うのだ。