「スピルバーグの戦争と肯定の炎」補遺。

  • 『スティーブン・スピルバーグ論』(フィルムアート社)に所収の拙論で、嘗て次のように書いた(同書152頁〜153頁)。

「柵」であることとは、空間を隔てる杭と杭の隙間から射し込んでくる「光」と、分ち難く結びついている。「光」の射してくるスリットがあるからこそ、「壁」のように或る空間を区切りながら、しかし同時に、その隔ての向こうにある「外」の存在も画面に収めることができるのだ。だから、「柵」に遮られ/護られながら、その隙間から覗くものは「外」の光景をみつめることができる。『E.T.』では、クローゼットの暗がりのなかに息を潜めて隠れながら、扉のスリットから、『ピーター・パン』を母親が幼い娘に読み聞かせるさまをE.T.がじっとみつめる。このときE.T.は映画館=トーチカで映画をみていたのであり、「柵」と「光」とは、ゾエトロープから繋がる映画館=トーチカのモチーフそのものなのである。もちろん『E.T.』でなく、『シンドラーのリスト』における、システムのエラーで知らぬ間にアウシュヴィッツへと送られつつある女たちの貨車のなかから、ひとりの女が有刺鉄線で閉じられた窓(「柵」=スリット)を通して、「外」の、雪原を走る鉄路の脇で遊んでいるひとりの子供のしぐさ――貨車に向けて、歪んだ笑顔を浮かべながら、突きだした人差指で何度も何度も喉を掻き切ってみせる――をみてしまうというシークェンスを想起してもおなじである。

  • 「おなじである」と書いたことが、或るときからずっと気になっていた。拙論全体の論旨には今も自信がある。しかし、この部分だけは、もう少し掘り下げることもできたのではないかと、ずっと考えてきた。
  • E.T.はトーチカのなかで護られながら映画をみている。しかし、アウシュヴィッツに送られようとしている女は、貨物列車というトーチカ=映画館(それはまったく同じ構造のまま、彼女を護るのではなく閉じ込める場所となっている。「柵」の性質である「護る/遮る」のうち、ここでは後者がより強く迫り出している)の中で、スリットを通して入ってくる「光」を、喉を掻き切るしぐさを、むしろ「みる」というより、ほぼ強制的に「みせられている」。つまり、ここで映画をみせることの暴力にも、スピルバーグは言及しているのだと読むこともできる*1
  • そうであるなら、殺人工場に送られるユダヤ人たちという「映画」を、鉄路の脇のいつもの指定席で享楽している子供のショットを通して、スピルバーグは映画をみることの暴力にも触れていると見做すことができよう。アウシュヴィッツのプラットホームは、ラ・シオタ駅から始まった映画が終着した、決して忘却してはならぬ駅のひとつである。

*1:次の瞬間、この女は、喉を掻き切る子供というショットを読み解き(モンタージュして)、この列車がじぶんたちを護るトーチカではないのではないかと疑念を抱く。到来したイメージを「映画」として捉えたことこそが、彼女に危険を報せているのである。映画はけっきょく暴力である、などというような短絡的なことを云っているのではない。