• 風呂に入りながらマーティン・エイミスの『時の矢』を読み終える。たとえその語りが私のことであっても語られる私と語る私との間に何らかのずれがなければ語りは生起しえない。だからこの小説が「私は暗黒の眠りから抜け出る」で始まり、「早すぎたのか、はたまたあまりにも遅すぎたのか、いずれにせよ時期外れにやってきた私」と、どちらも「時期外れ」で終わるのはまったく精確である。そして語られる「私」は「医者に見守られながら人間は人生の両端で泣き叫ぶ」のである。「ここにはなぜ、はない」の章は、アウシュヴィッツ=ビルケナウの焼却炉の煙突の口に向けて「蝟集する魂で地獄のように真赤に燃える夕暮れの空」が流れ込んで灰と糞の塊から無数のユダヤ人を作り出す生命の泉で勤務する医師たちの姿や「《傾斜路》でのスタッグ・パーティの後、監督囚人たちが花婿の親友のように男を――新しくごみと糞を振りかけられた――待機中の貨車に押し込み、家路の旅へ送り出す」さまなど、絶滅収容所の姿を逆まわしに描く。これらはとてもグロテスクだが、プリーモ・レーヴィパウル・ツェランのあと、「いずれにせよ時期外れにやってき」て、逆さまにしかホロコーストを見ることのできない1949年生の作家であるマーティン・エイミスが、それでもジェノサイドを書くことの取り組みとして、このグロテスクは誠実である。
  • ところで『時の矢』のカバー袖の著者紹介には「『ロンドン・フィールズ』(角川書店より刊行予定)」とあるが、結局出なかったのは残念。
  • 梅田に出る。フラベドのスコーンを食べる。お茶を飲む。グッチのパーカーはフードのエッジがバロック美術の彫刻のようだった。夜は、久しぶりにおおさかぐりるでとんかつ定食を食べる。店の有線で流れていたNiziUの《SWEET NONFICTION》がものすごくいい曲に聴こえた。『メタル・マシーン・ミュージック』を聴く。