呼吸。

  • 朝の六時前にごそこぞと起き出して風呂に入り、柚子が用意してくれた焼きたてのサンドウィッチを食べ、日雇い仕事で試験監督に出掛ける。
  • 払暁の光が反映する海は、涙が思わず溢れそうになるほど、美しい。微細な揺れ、差異の麗らかな、ひたすらな連続。
  • 夕方、姑の病院に。柚子が既に来ている。ベッドの脇の機械が増えていて、姑の口の周りは酸素マスクで覆われている。はっ、は、はっ、は、はっ、は、と、大きく口を開け、荒い息をしている。
  • 姑のそばに座っている柚子の話だと、しかし姑は酸素マスクをひどく嫌がっていて、ちょっとでも気力と体力が充ちてきて、指先を動かせるようになると、それを引っ張りおろしてしまうのだと云う。
  • 柚子と椅子を交換して、姑のベッドの横に座り、「カアチャン、カアチャン」と呼びかけると、もやもやとしていた双眸が力を帯びて、こちらを見つめかえしてくる。さらに、呼びかけや、額に触れたりするのを続けていると、すっかり目が覚めてきて、やがて癇癪だまを爆発させるようにして、透きとおった緑色のビニール製のマスクに繋がって酸素を供給しているチューブを、折り曲げた指先に引っ掛けて、ぐいぐいと引っ張り、顎の下へ引きずりおろしてしまった。
  • 私は、嫌がるんだから構わない、と思いつつ、しかし同時に、酸素を無理やりにでも入れてやらないといけないと理解もしているので、せめて、ずり落とされたマスクを、姑の鼻や口に直接触れないようにしながら、その上に差し掛けるのだった。
  • だが、そうしていると、みるみる機械に表示されている数値が下降してゆくので、結局また酸素マスクで、姑の口の周りを覆う。「コレはナ、やっぱりしとかなアカンねン」とか何とか云いながら。
  • 柚子に話を訊くと、眠ると呼吸が少し安定して、ちょっと身体も楽な様子になるそうで、私が来るまではずっと、寝かせようとしていたのだそうだ。姑と喋ることができなくなるのは何かとても不吉な感じがして、無理やり姑を呼び起こしていた私のさっきまでの行為は、だから、寧ろ姑の小康には、どうにも逆効果だった、と云うわけだ。
  • やがて、姑は眠りに就き、柚子と帰ろうとする。エレヴェータを待つ間、入れ違いに病室に入った看護婦さんが、姑の喉の痰を取ってくれようとしているのを、入り口に掛けられたカーテン仕切りの切れ間から覗きみる。すると、どうやら、また目が覚めてしまったみたいで、柚子と、もう少し残ろうか、と話し、病室に再び足を踏み入れるが、看護婦さんから、あなたたちも休んだほうがいいと云うような言葉を掛けられ、やはり帰路に。