『恋空』を観る。

  • 朝から自転車で公園に行き、銀ちゃんを先日金ちゃんを埋めた傍に葬る。
  • 本屋に寄って帰宅する。
  • 午後遅くから柚子と一緒に近所のユニクロに出掛ける。YLANG YLANGのコラボTシャツが売っていて吃驚する。
  • たこ焼を食べて帰宅する。案外それだけでお腹が膨れてしまい、夕食の蕎麦は明日。
  • 真夜中、DVDで借りてきた今井夏木の『恋空』を観た。
  • 象徴界の衰微は映画的隠喩を決定的に無力化し、この映画に如実に現れているように総てを画面に表出することでしか何も「語る」ことができなくなった」とか「現代の若いひとたちに映画館の画面は、いやTVのモニタすら大き過ぎる。携帯電話の、掌に収まる画面こそがリアリティを感じることができるサイズで、この映画では、携帯の画面を経由したものだけが真実となる。また、輪姦・親の離婚・流産・恋人の末期癌などの「悲劇」が次々に登場するが、それは若者たちが現実の退屈さ、現実感の希薄を、思春期を経た彼らに理解できる範囲での「不幸」で埋め合わせようとしているのだ」……とか何とか、如何様にも詭弁を弄することはできるが、そんな能書き以前に、この映画は決定的に下手糞なのだ。
  • 押井守はアニメのスタッフへの檄文のなかで、「メリエスの末裔たるアニメ人間は実写人間同様に一次現実と格闘し、かつこれを凌駕する妄想をこそ至上としなければなりません」と述べているが、端的に云えば、この『恋空』の監督は、まるで「現実と格闘し」ていないのだ。実写を撮っていても、それを怠っているから、もちろんアニメでもなく(この映画を評して「漫画みたいな映画だ」と云うのは漫画映画に失礼である)、紙芝居以下のものに仕上がってしまうのだ。例えば、橋の下からバタバタと白い鳩(ベラベラベラベラベヘラベラ登場人物たちが何でも喋る映画だが、クダラナイところで陳腐な隠喩に頼ろうとする)が二羽飛び出してくるCGの不細工も、鳩の飛ぶさまを観察したことがないから、あんな無様なショットになる。逆に云えば、如何に荒唐無稽な物語であっても、そう云うところさえしっかりと押さえていれば、キチンとした「映画」になるのだ(黒沢清の映画を見よ)。
  • しかし、こんな滅茶苦茶な演出と脚本(五分に一度は笑える。しかし、どうやら原作はもっと酷いそうだ……)では、さすがに役者たちも可哀想で、新垣結衣がどんな状況でも彼氏とのパコパコのことしか考えていない娘に見える(ヤリタイ盛りの十代なんてそんなもの?!)し、私は浅野ゆう子をいいと思ったことは一度もないが、これからは「唐揚げ大盛」女優として記憶することになる。
  • ひと言で云えば、久しぶりに心底から酷いと叫べる映画を観た。一時間でいちどDVDを止めて深夜二時に独り言を云いながら(イヤースゴイ、イヤースゴイワー、スゴイ……)階段を降りて、台所で笑いながら紅茶を飲み、再び最後まで観た。この映画、129分もあるのだ。川に流してやりたい映画だったよ……。
  • デジタル技術が遍在化するようになった時代の映画は遂に実写もアニメも区別がなくなるだろうが、そのとき、個々の演出家の映画なるものに就いての思考力、演出力はこれまで以上に問われることになる。日頃、私は青山真治の映画は駄目だとか何とか云っているが、それでも青山真治はキチンと映画を撮っているし、映画に就いて生真面目に思考もしているわけで、いつか傑作を撮るんじゃないかと期待しているからこそ、文句を云いながらも新作は見物している。ところで、『恋空』で「2000万人が泣いた」そうだが、そんなに子供がいるんなら、ぜんぜん少子化じゃないよ、日本はまだまだ大丈夫!
  • しかし、TV局にはよっぽどカネがあるのだろう、本当に矢鱈とクレーン撮影などが出てくるが、画面を129分(さらに全然面白くなさそうな映画の予告編を五分以上強制的に冒頭で見せられる。スキップできないようにしてあるのだ!)見つめながら、この映画の予算(幾らか知りませんが)の四分の一でも山下望に渡して大活劇を撮らせたいとつくづく思った。
  • 駄目な映画を観ることの効能は、マトモな映画を観たくなる。日頃、じぶんが観ている映画は概ね最低限はクリアしているのだと云うことが判る。
  • 嗚呼、映画が観たい……と思いながら、疲れ切って就寝する。
  • まぁ、今更DVDで『恋空』を観て呆れ返るなんて予定調和なんだけれども、これでボロボロ泣けちゃうひとが本当にいるんだと云うことは、やはり些か本当に驚いてしまったのだ。