『ウォンテッド』をみる。

  • きょうこそやらなきゃ、きょうこそやらなきゃと思いながら、いちどやる気が失せるとなかなか実際には手をつけないもので、しかし愈々、M女史から頂戴している仕事を、昼からこりこりと片づけた。ハイデガーのテクストは何度読んでも発見がある。
  • ふと本棚からひっぱりだした保坂和志の「生きる歓び」を読む。拾われた仔猫が死んでしまう小説だと記憶していたけれど、拾われた仔猫が元気になると云う小説だった。よかった。
  • 夜、柚子と元町の「ムジカ」で待ち合わせて、一緒に「ミント神戸」のレイトショウでティムール・ベクマンベトフ『ウォンテッド』を観る。この頃ずいぶん映画をみていなかった。『マトリックス』(または『ファイト・クラブ』)と『ホステル』を混ぜてプリンとソースとホイップクリームを作り、薄く大きなサングラスを掛けた横顔をみせるときが最も美しいアンジェリーナ・ジョリーをサクランボにして上に乗せたような映画だった。それぞれの映像はとても丁寧に作られていて見応えもあるのだけれど、それらを統合した一本の映画としての迫力は、期待していたほどではなかった(フレームにアンジェリーナ・ジョリーが、いつの間にか入っていていきなり登場、と云うのがいちばん驚いたアクションだった。アクションの過剰が連続する映画は過剰なアクションに無反応にさせることがたびたび起こる)。成るほど、本物の父と偽者の父、「外部」の掟と「私」の生存など、あれこれ語ることもできるだろうけれど、そんなことよりも、隣の柚子がさほど愉しめなかったらしく*1、目と耳が疲れて些かげっそりとしたふうなようすなのが気になってしかたがない。
  • 帰りの電車のなかで、日夏耿之介の『鴎外文学』所収の「鴎外記」を読む。このなかに東京の街角で、孫文と鴎外と、それぞれに道ですれ違ったときの印象を書かれているのだが、そう云えば石川淳も『森鴎外』の「傍観者の事業について」で、中学生のときいちどだけ電車のなかで鴎外をみたときのことを書いていた。若い頃、観潮楼のすぐ近くに住んでいた日夏耿之介は「鴎外の姿をしばしば見た」(「心の師父」)そうであるけれども。石川淳から森鴎外へ、再び草森紳一、文学研究者としての高橋和巳、遂に買ってしまった中村真一郎の『頼山陽とその時代』など、この頃、私の関心は少しずつ「こちら側」に移っている(拡がっている、と云うべきかも知れない)。
  • 帰宅してから、きのう作ったおでんをふたりでちょっとつまむ。

*1:ずっとあとになって、と云うのは『チェンジリング』をみたときのことだったが、アンジェリーナ・ジョリーのことを柚子と話していると、彼女が「あのおねーさんがすごく恰好良かった映画」、とこれを評していたので、全然愉しめなかった、と云うこともなかったみたいだ。